「多様性がイノベーションにつながる。」
このことは、様々な企業のこれまでの業績から経験的にも、また直感的にも正しいと思われる方が多いのではないでしょうか?実際に2017年にドイツのミュンヘン工科大学とBCG(ボストン コンサルティング グループ)が行った研究も、企業の多様性が高いほど、新製品・サービスから得られる収入が多くなるということを明らかにしています。特に多様性の中でも、「出身国の多様性」は組織のイノベーションと強く関係しているようです。この様な研究の後押しもあってか、最近では多くの組織で国籍の多様化が進んでいます。
多様性のある組織がイノベーションを産み出すことはご理解して頂けると思うのですが、それと同時に、異なった背景(例えば、出身国の違い)を持つ個人を組織としてまとめるのは非常に難しいと感じるのではないでしょうか?
日本語や英語といった、話す言語が異なると相互理解が難しく感じるのは当然に思えるかもしれません。例えば文法や発音といった、いわゆる表面的な「言葉の違い」はコミュニケーションにおいて大きな壁の様に感じられます。では、話す言語の違いはその様な表面的な違いのみを示すのでしょうか?話す言語の違いは、私達の思考といった非表面的な要素にはどの様に影響しているのでしょうか?
「現実」は少なからず言語により構成される?
突然ですが、皆さんは「現実」をどの様にとらえますか?私達は一体どの様に社会に存在する事実や実態をとらえて、「現実」と呼んでいるのでしょうか?
社会学に社会構成主義という考え方があります。社会構成主義の考え方では、「現実」と思っていることはすべて「社会的に構成されたもの」であるという見解をしています。よりドラマチックな表現をすると、そこにいる人達がある物事に対して「そうだ」と合意して初めて、それは「現実」として認められるという考え方です。つまり、私達は互いにコミュニケーションを取りながら、何が現実かを決め、私達を取り囲む世界を構成しているということです。
この考え方で重要なのが、「現実」は存在するものではなく構成されるものであるという点と、私達の多くが構成のプロセスを言語という型を通して行っているという2つの点です。互いに言語表現を介して「現実」を構成している以上、私達が捉える「現実」は少なからず言語から影響を受けているのではないでしょうか?
話す言語で考え方が変わる?
さて、私達の捉える「現実」という概念が少なからず言語から影響を受けていることは理解して頂けたと思います。では、より内面的な思考はどうでしょうか?
実はこの言語と思考の関係性について、古くから多く議論されてきました。特に、1930年代にベンジャミン・ウォーフとエドワード・サピアという2人の学者が「個人が使用できる言語によってその個人の思考が影響を受けている」と主張していたことが有名です。彼らは、言語は表面的な違いだけではなく、非表面的な思考にまで影響を及ぼしているという立場をとっていました。
世界では約7千の言語が使われていて、それぞれに異なる音、語彙、構造を持っています。例えば特徴的な例をご紹介すると、オーストラリアのアボリジニのクウク・サアヨッレ族の言語であるクウク・サアヨッレ語には、右や左という言い方がありません。代わりに東西南北の方角で位置情報を伝えます。その為、クウク・サアヨッレ族は「コップを少し、北北東にずらして」や「あら、南西の脚にアリがいるわよ」と表現するようです。日本語を母国語とする私にとって、日常の会話の中でいちいち自分がどの方角を向いているのかを意識することはありません。なぜならば日本語の特性上、普段のコミュニケーションにおける位置感覚は自分を中心として右や左と表現すればすんでしまうからです。一方で常に方角を意識する言語の特性を持つクウク・サアヨッレ族は、大地と自分の位置関係を常に意識する習性を身につけています。
クウク・サアヨッレ語と日本語の位置情報の表現方法の違いからも解る通り、それぞれの言語には独特な表現方法があります。そして、その言語で表現することを習慣的に行う過程で、その言語に相応しい意識の払い方を自然と学習している様です。そして、その意識の払い方が個人の思考の違いを創っているようです。
言語は記憶にまで影響を及ぼす?
先程の例から、言語の枠組みが、いかに話す個人の世界観や習慣的な考え方に影響をしているか分かって頂けたと思います。
最近の研究では、この様な言語の違いは個人のその場の思考に留まらず、記憶にまで影響しているということが明らかになっています。例えば、ある事故において「目撃者の記憶が話す言語によって異なる」なんてことがあるのでしょうか?2011年に、言語と目撃者の記憶に関して興味深い研究(Fausey & Boroditsky)が行われました。
英語という言語は、言語の特性から主語が無いと会話が成り立たない場合が多く、主語を強く主張する言語です。一方で、スペイン語という言語は主語が無くても会話が通じる場合が多く、比較的主語を主張しない言語です。例えば、英語では「彼女が来た」と表現をしなければ不自然ですが、スペイン語では「(彼女が)来た」と表現してもおかしくありません。2011年に行われた研究では、この様な主語に関する言語の特性の違いが個人の記憶にどう影響しているかを調査する為に、英語を話す人とスペイン語を話す人を対象に行われました。被験者に意図的および偶発的に起こる事故(例えば「花瓶が壊れる」)の2種類について、出来事を説明してもらい、その後事故を起こした人を覚えているか調査しました。
実験の結果、意図的に起きた事故に関しては、英語を話す人もスペイン語を話す人も同じ割合で動作主を示しながら(「彼女が花瓶を壊した」の様に、誰が犯人であるかを明確にしながら)説明をしていました。一方、偶発的に起きた事故に関しては、英語を話す人の方がより動作主を明確に示しながら説明していました。また、その後行われた記憶に関する調査では、英語を話す人もスペイン語を話す人も意図的に起きた事故に関しては同じ位事故を犯した人を覚えていましたが、偶発的に起きた事故に関しては英語を話す人の方がスペイン語を話す人よりも事故を起こした人を覚えていました。
この様な実験結果を踏まえて、この研究は話す言語の違いが目撃者の記憶に影響を与えていることを主張しています。いかがでしょうか?異なる言語を話すということは、想像以上に私達の思考に影響を与えているのではないでしょうか?
まとめ
・この記事では、イノベーションに欠かせない多様性の高い組織をマネージメントする際に使える話題として、言語と思考の関係性について解説しました。特に、話す言語の違いが非表面的に私達にどの様な影響を与えているのかについて、いくつかトピックをご紹介しました。
・ 話す言語が私達の捉える「現実」という概念に対してどう影響しているかを説明する為に、社会学の分野から社会構成主義という考えをご紹介しました。社会構成主義の考え方では、私達の捉える「現実」は存在するものではなく、コミュニケーションを通して構成されるものだとしています。社会構成主義の立場からすると、私達が言語という型を介して「現実」を構成している限り、「現実」という概念は少なからず言語から影響を受けているのではないかと考えられます。
・次に、言語がより内面的な要素である思考にどのように影響しているのかについて関連するトピックをご紹介しました。言語と思考の関係性について古くから議論されており、中でも1930年代にベンジャミン・ウォーフとエドワード・サピアの「個人が使用できる言語によってその個人の思考が影響を受けている」という、言語は表面的な違いだけではなく、非表面的な思考にまで影響を及ぼしているという立場が当時支持を受けました。
・クウク・サアヨッレ語と日本語の比較例からも解る通り、言語という枠組みを使って表現をする私達は、その言語に相応しい意識の払い方を自然と学習している様です。そして、その意識の払い方が個人の思考の違いを創っているようです。
・更に、言語の違いは個人のその場の思考に留まらず、記憶にまで影響することが最近の研究で主張されています。目撃者の話す言語の違いで、加害者の罪の重さが変わってしまうということが起こりうるかもしれません。
・異なる言語を話すということは、文法や発音などの表面的な「言葉の違い」の他に、思考や記憶といった非表面的な部分で想像以上に私達に影響を与えているのではないでしょうか?チームをマネージメントされる立場にいる方は、言語の違いがもたらす非表面的な違いがあるということを理解した上でコミュニケーションを図ると、より多様性への理解が深まるのかもしれません。
引用
(1). Lorenzo, R. et al., (2017) "The Mix That Matters, Innovation Through Diversity".
https://www.bcg.com/ja-jp/publications/2017/people-organization-leadership-talent-innovation-through-diversity-mix-that-matters.aspx
(2). An article on Lera Boroditsky's TED talk:
https://headlines.yahoo.co.jp/ted?a=20180427-00012727-ted
(3). Fausey, CM., & Boroditsky, L., (2011) "Who dunnit? Cross-linguistic differences in eye-witness memory".