新規事業の立ち上げ、あるいは既存事業の変革。その道のりは、常に霧の中を手探りで進むようなものである。多くの組織は、この深い霧を晴らすための「唯一の正しい地図」を求め、リーン・スタートアップやデザイン思考といった流行の方法論を導入する。プロセスに従い、フレームワークを埋め、仮説検証を繰り返す。しかし、その「正しい」はずのプロセスが、なぜかチームを疲弊させ、画期的なイノベーションではなく、凡庸な改善案ばかりを生み出す結果に終わることはないだろうか。
私たちは、成功への方程式を求めるあまり、一つの方法論をドグマ(教義)として崇拝し、思考停止に陥ってはいないだろうか。もし、不確実な世界を航海するための羅針盤が、一つではなく、それぞれ異なる方角を指し示す「4つ」存在するとしたら。そして、真に賢明な航海士とは、絶対的な地図に頼る者ではなく、状況に応じて複数の羅針盤を使い分ける者だとしたら。この、方法論の乱立という混沌の先に、私たちはどのような思考の秩序を見出せばよいのだろうか。
「唯一の正解」という名の暴政:なぜ、あなたの組織のイノベーション・プロセスは形骸化するのか?
この問題は、決して抽象的な議論ではない。かつて世界を席巻した日本企業が、近年イノベーションの創出に苦戦しているという指摘は、多くのビジネスリーダーが共有する危機感だろう。ボストン コンサルティング グループ(BCG)が2024年2月に発表したレポートによれば、世界の最もイノベーティブな企業ランキングにおいて、日本企業の存在感は15年前に比べて著しく低下している。[1] レポートは、多くの日本企業が「旧来の枯れ始めたイノベーションモデルの枠組みの中で、小さな成果は出せるものの、本当の意味でのイノベーションにはつなげられず、悪戦苦闘している」と分析する。[1]
こうしたマクロな停滞は、私たちの現場にどのような形で現れているだろうか。大手電機メーカーで、新規IoTデバイスの開発を率いる工藤マネージャーのチームを想像してみてほしい。会社の方針に従い、彼らは「リーン・スタートアップ」の手法を忠実に実践している。ビジネスモデル・キャンバスを作成し、顧客インタビューを重ね、MVP(Minimum Viable Product)での検証を繰り返す。しかし、メンバーたちはいつしか、キャンバスを美しく埋めることや、検証の回数をこなすこと自体が目的化しているように感じ始めていた。顧客の口から出てくるのは、既存製品の些細な改善要望ばかり。誰もが心のどこかで「このままでは、世界を変えるような製品は生まれない」と感じながらも、「プロセスに従うこと」が正義とされる空気の中で、その違和感を口に出せずにいる。
多くの組織が工藤氏のチームと同じような壁に突き当たる背景には、不確実性というものの本質を捉えきれないまま、一つの方法論を「思考のショートカット」として安易に導入してしまうという構造的な問題がある。イノベーションとは、単一のプロセスに従う作業ではなく、直面する不確実性の「種類」と「深度」に応じて、思考のモードそのものを切り替えていく、動的な知的活動なのである。
「方法論」という一枚岩の思考から、「思想」という名のパレットへ
工藤氏のチームが陥ったような停滞を、個人の能力や意欲の問題として片付けてしまうのは簡単だ。しかし、それでは本質的な解決には至らない。この課題を構造的に理解するために、私たちの思考の解像度を上げる、いくつかの概念的なレンズを手にしてみよう。
予測か、コントロールか:不確実性と向き合う二つの態度
新しい事業を創造する際のアプローチは、大きく二つに大別できる。一つは、未来を可能な限り「予測(Prediction)」しようとする態度だ。市場調査やデータ分析に基づき、成功確率の高い事業計画を立て、その計画通りに実行することを目指す。もう一つは、未来は予測不可能であるという前提に立ち、自らが持つリソースを使って、望ましい未来を「コントロール(Control)」、すなわち創造していこうとする態度だ。どちらのアプローチが優れているというわけではなく、どのような状況に置かれているかによって、その有効性は変わってくる。
リスクと「真の不確実性」:戦うべき相手の見極め
事業を取り巻く不確実性にも、種類がある。サイコロの目のように、起こりうる結果とその確率がある程度計算できる状態は「リスク(Risk)」と呼ばれる。一方で、どのような結果が起こりうるのか、その確率も全く未知である状態は、経済学者フランク・ナイトにちなんで「ナイト的(真の)不確実性(Knightian Uncertainty)」と呼ばれる。既存市場での製品改良はリスクの領域に近いかもしれないが、全く新しい市場を創造するような試みは、真の不確実性の下で行われる。自分が今、どちらの海を航海しているのかを見極めることが、羅針盤を選択する上での第一歩となる。
4つの学派が示す、不確実性との「対峙法」
この、どの羅針盤を信じるべきかという根源的な問いに対し、経営学の世界で長年繰り広げられてきた議論を整理し、統合的な視座を提供してくれる画期的な論考がある。ジェームズ・G・コムズ氏ら、起業家研究の第一人者たちが発表したこの論文は、新事業創造をめぐる主要な4つのアプローチ――リーン・スタートアップ、エフェクチュエーション、クリエーション理論、セオリーベースド・ビュー――を体系的に比較・分析し、それぞれの思想的背景と実践的な射程を浮き彫りにした。
航路図を描き、仮説を検証する:「リーン・スタートアップ」の論理
まず、多くの実務家にとって最も馴染み深いのが「リーン・スタートアップ」だろう。このアプローチの核心は、事業全体を一つの壮大な「仮説」と捉え、それを体系的に検証していくことにある。論文によれば、リーン・スタートアップは「予測」を重視するアプローチに分類される。 [論文] まずビジネスモデル・キャンバスを用いて事業の全体像(=理論)を描き、顧客へのインタビューやMVP(Minimum Viable Product)を用いた実験を通じて、その理論の正しさを検証していく。
この発見が示唆するのは、リーン・スタートアップが、ある程度「検証すべき仮説」を立てられる程度の不確実性の下で、最も効果を発揮するということだ。顧客の潜在的なニーズや、市場の反応といった情報が、どこかに「存在する」と信じ、それを効率的に発見しようとする。それは、霧の中におぼろげに見える島の輪郭を、少しずつ鮮明にしていくような航海術と言えるだろう。
地図を捨て、手元の道具で道を創る:「エフェクチュエーション」の逆説
次に、リーン・スタートアップとは対照的な思想として「エフェクチュエーション」がある。これは、熟達した起業家たちの行動原理を分析することから生まれたアプローチで、「コントロール」を重視する。 [論文] 彼らは壮大な事業計画から始めるのではない。まず「自分は何を持っているか(手中の鳥)」を確認し、「許容可能な損失」の範囲で行動を起こし、その過程で出会った人々(偶然のキルト)と対話し、共に未来を「共創」していく。
このアプローチが浮き彫りにするのは、未来は予測するものではなく、創造するものであるという世界観だ。目的地がどこにあるか分からない、あるいは存在しないかもしれない航海において、重要なのは正確な地図ではなく、手元にある材料でいかに頑丈なイカダを作り、協力者を見つけるかである。ナイト的な不確実性が支配する、全く新しい市場の創造に適した思想と言えるだろう。
常識を疑い、未来を「証明」する:「セオリーベースド・ビュー」の核心
三つ目は、比較的新しい考え方である「セオリーベースド・ビュー」だ。このアプローチは、リーン・スタートアップと同様に「理論」から出発するが、その性質は大きく異なる。ここで言う理論とは、ビジネスモデル全体ではなく、既存の常識や通説に挑戦する、たった一つの「逆張り(Contrarian)」の信念である。 [論文] そして、その信念が正しいことを証明するために、乗り越えるべき核心的な課題を特定し、その解決策を見出すための実験を繰り返す。
この思想が私たちに教えるのは、真の破壊的イノベーションは、顧客の声を聞くことではなく、誰も信じない未来を信じ抜く、一人のビジョンから始まるという可能性だ。それは、予測とコントロールの両方を高いレベルで統合したアプローチと言える。まず「世界はこうなるはずだ」という大胆な予測を立て、その未来を実現するために、目の前の課題を一つひとつコントロール下に置いていく。まさに、不可能を可能にするための航海術である。
「対話」から生まれる偶然の産物:「クリエーション理論」が描く風景
最後に、他の三つとは少し毛色の異なる「クリエーション理論」がある。これは、特定の実践方法を提示する規範的な理論というより、そもそもイノベーションがどのようにして生まれるのかを説明しようとする、記述的な理論である。 [論文] この理論によれば、革新的な事業機会は、人々の何気ない「対話の実験」の中から、偶然生まれてくる。あるアイデアが人々の共感を呼び、それがたまたまそのアイデアを実現できる独自の経験や知識を持つ人物の耳に入ったとき、新たな価値創造のプロセスが始まるのだ。
この理論が示唆するのは、イノベーションにおける「偶然性」と「社会性」の重要性である。偉大な発明や事業は、一人の天才の頭脳から生まれるだけでなく、多くの人々の対話と相互作用という、豊穣な土壌から芽吹く。それは、特定の航海術というより、多様な船が自由に行き交う海そのものの生態系を描き出すような視点と言えるだろう。
戦うべきは「方法論の優劣」ではない
ここまで4つの異なるアプローチを見てくると、「結局、どれが一番正しいのか?」という問いが浮かぶかもしれない。しかし、この論文の著者たちが最も伝えたかったのは、その問い自体が、もはや有効ではないという事実だ。
紹介した4つのアプローチは、互いに排他的なものではなく、むしろ相互補完的な関係にある。論文が示唆するように、事業創造のフェーズや、直面する不確実性の種類によって、最適なアプローチは変わってくる。 [論文] 例えば、全くのゼロからアイデアを生み出す初期段階では、「クリエーション理論」が描くような対話や、「エフェクチュエーション」的な試行錯誤が有効かもしれない。そして、ある程度事業の方向性が見えてきた段階で、「リーン・スタートアップ」を用いて体系的に仮説を検証し、事業モデルを磨き上げていく。あるいは、業界の常識を覆すような破壊的イノベーションを目指すのであれば、「セオリーベースド・ビュー」に基づき、自らのビジョンを証明するための戦いに挑むべきだろう。
真の敵は、特定の方法論ではない。むしろ、あらゆる状況に単一の方法論を適用しようとする「思考の硬直性」こそが、イノベーションを阻む最大の壁なのである。
あなたのプロジェクトに「最適な羅針盤」を実装する思考法
これまでの議論が示すのは、不確実な事業環境を乗り切るために必要なのは、唯一絶対の地図ではなく、状況に応じて使い分けられる「4つの羅針盤」を持つことだという事実である。重要なのは、方法論の奴隷になることではなく、それぞれの思想を深く理解し、自らのプロジェクトの「現在地」に合わせて、思考のOSを自在に切り替える能力を身につけることだ。
まず、あなたのチームの「現在地」を問う
-
顧客の課題は明確か?:顧客自身が課題を言語化できているなら「リーン・スタートアップ」の出番かもしれない。しかし、顧客自身も気づいていない潜在的なニーズを探るなら、「エフェクチュエーション」や「セオリーベースド・ビュー」の領域だ。
-
解決策の技術は確立されているか?:既存の技術の組み合わせで解決できるなら、不確実性は比較的低い。しかし、まだ存在しない技術の開発が必要なら、それは「セオリーベースド・ビュー」が挑むべき、真の不確実性の高い挑戦である。
-
市場の反応は予測可能か?:競合製品が存在し、ある程度の市場規模が予測できるなら、「リーン・スタートアップ」で市場適合性を探るのが賢明だ。しかし、全く新しい市場を創造しようとするなら、「エフェクチュエーション」で協力者を探すことから始めるべきかもしれない。
次に、状況に応じて「思考のOS」を切り替える
-
「もし、計画を一切立てられないとしたら?」(エフェクチュエーション的問い):今、このチームにあるリソース(人材、技術、資金、ネットワーク)だけで、今日から始められることは何か?誰に話を持ちかければ、面白い化学反応が起きそうか?
-
「もし、私たちの事業が『常識への挑戦』だとしたら?」(セオリーベースド・ビュー的問い):私たちの成功を支える、最も重要で、最も信じがたい「逆張りの信念」は何か?その信念が正しいことを証明するために、絶対に解決しなければならない核心的な課題は何か?
-
「もし、答えが顧客の中ではなく、私たちの対話の中にあるとしたら?」(クリエーション理論的問い):このプロジェクトについて、全く異なる視点を持つであろう社内外の人物は誰か?彼らとの雑談の中から、どのような予期せぬアイデアが生まれる可能性があるだろうか?
#タグ
イノベーション、新規事業、リーン・スタートアップ、エフェクチュエーション、不確実性
📖 書誌情報
Combs, J. G., Gruber, M., & Zahra, S. A. (2024). Four Approaches to New Venture Creation: Taking Stock and Moving Forward. Journal of Management, 50(8), 3105–3119