最低賃金の引き上げや、労働組合による賃上げ要求――。労働者の生活を守るためのこれらの政策は、長らく社会的な正義として議論されてきた。しかし、もしその「正しさ」が、意図せずして、労働者自身の仕事を奪う「自動化」の波を加速させているとしたら?もし、企業が人件費の高騰に直面したとき、その解決策を、賃金の抑制ではなく、人間を機械に置き換える「イノベーション」に見出すとしたら?
この根深く、複雑な課題に、私たちはどう向き合えばよいのだろうか。
会社の賃上げが、誰かのクビに繋がる
近年、日本でも持続的な賃上げが重要な政策課題となっている。2024年の春闘では、多くの企業が歴史的な賃上げ率を回答し、デフレからの完全脱却への期待が高まっている。しかし、この賃上げの動きが、中長期的には、企業の自動化投資を促し、雇用のあり方を大きく変える可能性があることを、私たちは十分に認識しているだろうか。
例えば、製造業の現場では、人件費の上昇を背景に、産業用ロボットの導入が加速している。日経新聞の報道によれば、特に人手不足が深刻な中小企業において、自動化はもはやコスト削減だけでなく、事業継続のための必須の選択肢となっている。
この問題は、製造業だけの話ではない。サービス業で働く佐藤さんも、この変化の波を肌で感じていた。彼女が働くホテルでは、最近、フロント業務や清掃業務に相次いでロボットが導入された。会社は、「人手不足の解消と、従業員の負担軽減のため」と説明している。しかし、佐藤は知っている。ロボットの導入と時を同じくして、パート従業員の契約が更新されなかった事実を。そして、正社員である自分たちにも、「より高度なスキル」が求められるようになり、対応できない者は淘汰されるのではないかという、見えざるプレッシャーが高まっていることを。
このような課題が多くの企業で他人事ではないのは、企業経営が、常にコストと便益の最適化を求める、合理的な力学に基づいているからだ。労働コストが上昇すれば、企業は、労働を代替する資本(=自動化技術)への投資を増やすインセンティブを持つ。これは、経済学で「誘発的イノベーション(Induced Innovation)」と呼ばれる、古くから知られたメカニズムである。問題は、このメカニズムが、グローバル化と技術革新によって、かつてないほどのスピードと規模で、私たちの職場を侵食し始めていることだ。
複雑な課題を構造的に捉えるための「思考の道具」
佐藤さんが直面したようなジレンマを、単なる個社の経営判断として片付けるのではなく、構造的に分析するための思考の道具をいくつか紹介する。
「自動化イノベーション」という名の創造的破壊
自動化とは、単に既存の機械を導入すること(Adoption)だけを意味しない。それは、労働を代替するための新しい機械やプロセスを「発明」すること(Innovation)を含む。この「自動化イノベーション」こそが、労働市場の構造を長期的に、そして不可逆的に変える原動力となる。
グローバルな賃金格差と「シフト・シェア分析」
現代のイノベーションは、国境を越えて行われる。ドイツの機械メーカーが生み出す自動化技術は、中国の工場の労働者の賃金動向に影響を受ける。このように、グローバルに展開する企業のイノベーション動機を分析するためには、各国の賃金動向を、その企業の海外市場へのエクスポージャー(依存度)に応じて加重平均する必要がある。このような分析手法は「シフト・シェア分析(Shift-share Design)」と呼ばれ、グローバルな因果関係を特定する上で強力なツールとなる。
特許データという「イノベーションの足跡」
企業がどのようなイノベーションを生み出しているかを客観的に捉える上で、「特許データ」は極めて貴重な情報源となる。特許のテキスト情報を分析し、それが「自動化」に関連するものかどうかを分類することで、賃金変動に対する企業のイノベーション反応を、定量的に測定することが可能になる。
賃金が1%上がると、自動化イノベーションは5%加速する
この問いに対し、Hémousらの研究チームが経済学のトップジャーナルであるJournal of Political Economyで2025年に発表した論文は、大規模な国際特許データとマクロ経済データを組み合わせることで、賃金上昇が「自動化イノベーション」を誘発するメカニズムを、企業レベルで初めて実証した、画期的なものである。
この研究が私たちに見せてくれるのは、賃金という「価格シグナル」が、国境を越えて企業のイノベーションの「方向性」を規定し、労働と資本の間の代替関係を、技術進歩を通じてダイナミックに変化させていくという、グローバル経済の冷徹な姿だ。
1. 特許テキスト分析が、「自動化イノベーション」を可視化した
まず、研究チームは、膨大な特許のテキスト情報を分析し、それが「自動化」に関連する技術かどうかを分類する、新しい手法を開発した。これにより、これまで漠然としか捉えられてこなかった「自動化イノベーション」の動向を、客観的なデータとして追跡することが可能になった。
この発見は、それ自体が大きな貢献である。この手法を用いることで、どの産業で、どの企業が、どのような自動化技術の開発をリードしているのかを、定量的に把握することができる。
2. 低スキル労働者の賃金上昇が、自動化を強力に誘発する
そして、研究が明らかにした核心的な事実は、企業の顧客(製品の納入先)がいる国々で、低スキル労働者の賃金が上昇すると、その企業による「自動化イノベーション」が著しく増加するということだ。
その弾力性(賃金が1%上昇したときにイノベーションが何%増加するかを示す指標)は、2から5という、驚くほど高い数値であった。これは、企業が、人件費の上昇に対して、極めて敏感に、そして強力に、労働を代替する技術開発で応答することを示している。
3. 一方で、高スキル労働者の賃金上昇は、自動化を「抑制」する
興味深いことに、高スキル労働者の賃金が上昇した場合には、逆に自動化イノベーションは「減少」する傾向が見られた。
この発見は、「資本スキル補完性(Capital-skill Complementarity)」と呼ばれる経済学の仮説を裏付けるものである。すなわち、自動化機械(資本)は、それを操作・維持するための高度なスキルを持つ労働者を「補完」する関係にあるため、高スキル労働者のコストが上昇すると、自動化への投資インセンティブが低下するのである。自動化は、単純労働を代替する一方で、新たな専門職の需要を生み出すという、二面性を持っているのだ。
4. 労働市場改革という「社会実験」が、因果関係を証明した
さらに、この研究は、ドイツで2000年代初頭に行われた「ハルツ改革」という大規模な労働市場改革を「自然実験」として利用し、この因果関係を裏付けている。この改革は、低スキル労働者の労働供給を増やし、賃金を抑制する効果があった。
分析の結果、この改革後、ドイツ市場へのエクスポージャーが高い外国企業による自動化イノベーションは、有意に「減少」したことがわかった。これは、賃金の下落が、企業の自動化へのインセンティブを削いだことを明確に示している。
この「グローバルな連鎖」から、私たちは逃れられない
もちろん、どのような優れた研究も、それ一つで全てを語ることはできない。Hémousらの研究は、主に機械産業の特許に焦点を当てており、サービス業やソフトウェア産業における自動化イノベーションについては、異なるメカニズムが働いている可能性がある。
また、この研究は、賃金上昇がイノベーションを「誘発する」という側面を明らかにしたが、そのイノベーションが、最終的に社会全体の生産性や雇用にどのような影響を与えるかという、よりマクロな問いについては、さらなる分析が必要だろう。
しかし、この研究が投げかける本質的な問いは、国や産業を越えて普遍的な重要性を持つ。「グローバルに連鎖した経済の中で、一国の労働政策が、いかにして国境を越え、世界の技術進歩の方向性を変え、そして巡り巡って自国の労働者の未来に影響を与えるのか」。この複雑なフィードバックループから、私たちは目を背けることはできない。
「賃上げ」と「雇用」の二律背反を、どう乗り越えるか
では、完璧な答えがないとわかった上で、私たちはこの複雑な問題とどう向き合えばよいのだろうか。
ここまでの話から見えてくるのは、賃金政策とイノベーション政策が、もはや別々に語ることはできない、表裏一体の課題であるという、揺るぎない事実だ。重要なのは、賃上げか、雇用か、という二者択一の議論に陥ることではない。賃上げがもたらす自動化の波を、いかにして労働者のスキル向上と、より付加価値の高い新たな雇用の創出へと繋げるか、という新しい視点を持つことなのかもしれない。
最初のステップ:あなたの会社の「見えざるグローバル連鎖」を可視化する
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私たちの会社の製品やサービスは、どの国の、どの産業の、どのような労働者によって使われているだろうか。
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それらの国々における賃金動向や労働市場政策の変化は、私たちの製品開発やイノベーション戦略に、どのような影響を与えうるだろうか。
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私たちの会社が生み出す自動化技術は、世界のどこかで、誰かの仕事を代替している可能性があるという事実に、私たちは自覚的だろうか。
次のステップ:チームで「人間と機械の新たな協業モデル」を構想する
個人の内省から得た気づきは、チームの対話を通じて初めて、組織の力へと昇華する。以下の論点を、次の戦略会議のテーブルに乗せてみてはどうだろうか。
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誘発的イノベーションの戦略的活用: 顧客のいる市場での人件費上昇を、単なるコスト増としてではなく、新しい自動化ソリューションを開発・提案するための「ビジネスチャンス」として捉え直すことはできないか。
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スキル変革への投資: 自動化によって代替される低スキル業務に従事している従業員に対して、自動化機械を操作・維持するための高スキル業務へと移行するための、大規模な再教育・再訓練プログラムに投資すべきではないか。
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政策提言への関与: 個社の努力だけでは解決できないこの構造的な課題に対して、業界団体や政府と連携し、賃上げ、イノベーション、そして労働移動の円滑化を三位一体で進めるための、より大きな政策的枠組みの構築に貢献できないだろうか。
#️⃣【タグ】
自動化, 誘発的イノベーション, 賃金, 労働市場, 特許
📖【書誌情報】
Hémous, D., Olsen, M., Zanella, C., & Dechezleprêtre, A. (2025). Induced automation innovation: Evidence from firm-level patent data. Journal of Political Economy, 133(6).