AIによる監視が、従業員の信頼を壊す

私たちは今、職場のあらゆる場面で、かつてないほどの「データ化」の波に直面している。AIによるパフォーマンス分析、スマートデバイスによる行動追跡、アルゴリズムによる業務指示――。これらのテクノロジーは、生産性の向上や意思決定の最適化といった、輝かしい未来を約束する。しかし、その光が強ければ強いほど、その裏側で生まれる影もまた、濃くなってはいないだろうか。

効率化の名の下に導入されたテクノロジーが、なぜか従業員のエンゲージメントを下げ、組織に静かな不信感を広げていく。私たちは、この矛盾に気づきながらも、その根本原因から目をそらしてはいないだろうか。もし、問題がテクノロジーそのものではなく、それが従業員と組織の間に存在する、デリケートな「信頼」という関係性を、根底から揺るがしていることにあるとしたら。

この根深く、複雑な課題に、私たちはどう向き合えばよいのだろうか。

「良かれと思って」のデータ活用が、なぜ現場の心を蝕むのか?

近年、従業員の生産性やエンゲージメントを可視化するため、様々な「ピープルアナリティクス」ツールが導入されている。例えば、日立製作所は、従業員が装着するウェアラブルセンサーから幸福度を測定し、組織活性化に繋げる技術を開発・活用している。こうした取り組みは、客観的なデータに基づいて、より良い職場環境を構築しようとする、経営側の「善意」から生まれている。

しかし、この善意は、常に従業員に正しく伝わるとは限らない。人事部で新しいタレントマネジメントシステムの導入を推進する佐藤さんも、このジレンマに直面していた。システムは、従業員のスキルや実績、日々の業務データをAIで分析し、最適な人員配置や育成プランを提案してくれる。経営陣は、この「科学的人事」に大きな期待を寄せている。しかし、現場の従業員からは、「常に監視されているようだ」「自分のキャリアが、アルゴリズムに決められてしまうのか」といった、漠然とした不安の声が聞こえ始めていた。

「私たちは、従業員のためを思って、このシステムを導入したはずなのに…」。佐藤は、テクノロジーがもたらす効率性と、それが従業員に与える心理的なプレッシャーとの間で、板挟みになっていた。

このような課題が多くの企業で他人事ではないのは、私たちが「データ化」という現象を、単なる業務プロセスの変化としてしか捉えていないからだ。しかし、データ化は、従業員と組織の間の力関係や、相互の期待といった、雇用関係の根幹をなす「信頼」のあり方を、静かに、しかし根本的に変容させてしまう。この変化に無自覚であるとき、良かれと思ってのテクノロジー導入は、意図せずして従業員の心に深い溝を刻むことになる。

敵はテクノロジーではない。真の課題は信頼構築プロセスの変化

佐藤さんが直面したようなジレンマを、単なるコミュニケーション不足の問題として片付けるのではなく、構造的に分析するための思考の道具をいくつか紹介する。

信頼の「自動運転モード」と「マニュアルモード」
安定した関係性の中では、私たちの「信頼」は、特に意識されることのない「自動運転モード(Automatic Trust)」で機能している。しかし、予期せぬ出来事や環境の変化が起きると、私たちは警戒心を強め、相手が本当に信頼できるのかを意識的に評価し始める「マニュアルモード(Systematic Trust)」へと切り替わる。データ化技術がもたらす小さな、しかし絶え間ない「サプライズ」は、従業員の信頼をこのマニュアルモードへと移行させる引き金となる。

従業員が抱える「見えざる脆弱性」
テクノロジーは、従業員に二種類の「脆弱性(Vulnerability)」を意識させる。一つは、評価基準や将来のキャリアパスが不透明になることへの不安、すなわち「断絶への脆弱性(Discontinuity Vulnerability)」である。もう一つは、自分の個性や尊厳が無視され、単なる「機械の歯車」として扱われることへの恐れ、すなわち「社会情緒的な脆弱性(Socio-emotional Vulnerability)」である。この脆弱性の感覚こそが、信頼をマニュアルモードへと切り替えるスイッチとなる。

信頼を「積極的に」マネジメントする必要性
従業員が信頼のマニュアルモードに入っているとき、組織はもはや、ただ誠実に行動しているだけでは不十分となる。従業員が抱える脆弱性に寄り添い、信頼に値する存在であることを「積極的に(Active)」示し続ける必要がある。このような意図的な働きかけを、「積極的信頼醸成(Active Trust-Building)」と呼ぶ。

信頼を再構築する二つの道:「言葉」による約束と、「行動」による証明

この問いに対し、Weibel, Schafheitle, and van der Werff (2023)が経営学のトップジャーナルであるJournal of Management Studiesで発表した研究は、テクノロジーが浸透した職場における、新しい信頼関係の築き方を示唆している。この研究は、信頼に関する二重プロセス理論を基に、データ化技術が従業員の脆弱性をいかに顕在化させ、それに対して組織がどのように「積極的信頼醸成」を行うべきかを、包括的な理論的フレームワークとして提示したものである。

この研究が私たちに見せてくれるのは、従業員の「見えざる不安」に対し、組織が取りうる二つの異なる、しかし相互に補完的なアプローチの存在だ。

1. 「象徴的」戦略:言葉とデザインで、信頼の物語を紡ぐ

一つ目のアプローチは、コミュニケーションやテクノロジーのデザインを通じて、組織が信頼に値する存在であることを示す「象徴的(Symbolic)」な戦略である。

この発見が示唆するのは、まず従業員自身のデジタルリテラシーを高めることの重要性だ。テクノロジーの仕組みや目的を理解することは、不透明性から生じる不安(断絶への脆弱性)を和らげる。さらに、AIの判断根拠を可能な限り説明可能にする「説明可能なAI(Explainable AI)」のような、透明性の高いテクノロジーデザインを選択することも、信頼醸成に貢献する。また、従業員の創造性を支援し、学習を促すような「エンパワーメント型」のテクノロジー設計は、組織が従業員を単なる労働力ではなく、尊重すべきパートナーと見なしているという強力なメッセージ(善意の表明)となる。

2. 「実質的」戦略:行動と仕組みで、信頼の証を築く

しかし、言葉やデザインだけでは、信頼は盤石にならない。二つ目のアプローチは、具体的な投資や制度設計を通じて、従業員との利害を一致させる「実質的(Substantive)」な戦略である。

この研究が浮き彫りにするのは、リーダーシップの役割の再定義である。テクノロジーと従業員の間に立ち、矛盾する要求を調整し、人間的な配慮を確保する「仲介者」としてのリーダーの役割が、これまで以上に重要になる。また、テクノロジーの導入プロセスに従業員を参画させ、その使われ方を「共創(Co-creation)」する仕組みは、組織の善意を具体的に示す行動となる。さらに、従業員代表を意思決定機関に加えるなど、組織が意図的に自らの力を従業員と分かち合い、相互依存の関係を制度として保証することは、信頼関係における究極のコミットメントと言えるだろう。

信頼への投資は、本当に「性善説」だけで成り立つのか?

もちろん、どのような優れた理論も、それ一つで全てを語ることはできない。Weibelらの研究は、組織が取るべき行動の方向性を示した理論的フレームワークであり、これらの戦略がすべての文化や状況で等しく有効であるかは、さらなる実証研究を待たねばならない。

また、組織が示す「善意」が、常に本物であるとは限らない。巧妙な「象徴的」戦略が、従業員の脆弱性を利用するための隠れ蓑として使われる危険性も存在する。従業員と組織の間に存在する、根本的な力の非対称性を無視して、真の信頼関係を築くことはできないだろう。

結局のところ、この研究は最終的な答えではなく、むしろ「私たちの組織は、テクノロジーが従業員に与える『脆弱性』に、どれだけ真摯に向き合えているか?そして、その脆弱性を乗り越えるための『積極的な投資』を行う覚悟があるか?」という、より本質的な問いを私たちに投げかけているのかもしれない。

「監視」から「協働」へ:明日から始める、信頼を育むための対話

では、完璧な答えがないとわかった上で、私たちはこの複雑な問題とどう向き合えばよいのだろうか。

ここまでの話から見えてくるのは、テクノロジーが浸透した職場におけるマネジメントの核心が、もはや「管理」や「統制」ではなく、「信頼」の積極的な醸成にあるという、揺るぎない事実だ。重要なのは、テクノロジーの導入を止めることではない。テクノロジーが引き起こす従業員の「脆弱性」を直視し、それを乗り越えるための対話と仕組みを、組織の中に意識的に埋め込んでいくという、新しい姿勢を持つことなのかもしれない。

最初のステップ:あなたの組織の「信頼の現在地」を測る

  • 私たちの組織では、新しいテクノロジーを導入する際、その目的や仕組み、そして従業員への影響について、透明性の高いコミュニケーションを十分に行っているだろうか。

  • 従業員は、テクノロジーの出す結論や提案に対して、疑問を呈したり、フィードバックしたりすることが心理的に安全だと感じられる環境にあるだろうか。

  • リーダーは、テクノロジーが示す「効率的な」判断と、従業員の個別の事情や感情との間で、バランスを取る役割を十分に果たせているだろうか。

次のステップ:チームで「信頼の未来」を設計する

個人の内省から得た気づきは、チームの対話を通じて初めて、組織の力へと昇華する。以下の論点を、次の戦略会議のテーブルに乗せてみてはどうだろうか。

  • 従業員のデジタルリテラシー向上のための、具体的な研修プログラムを設計できないだろうか。それは、単なる操作方法の教育に留まらず、テクノロジーの倫理的な側面や、自らの仕事への影響を考える機会を含むべきではないか。

  • テクノロジーの導入や運用に関するルールを、従業員代表を交えて「共創」するための、常設の委員会やタスクフォースを設置することはできないだろうか。

  • 従業員の「脆弱性」に寄り添うリーダーシップを、どのように育成し、評価していくか。コンプライアンスや効率性だけでなく、「共感力」や「倫理的判断力」を、これからのリーダーの必須要件として位置づけることはできないだろうか。

#️⃣【タグ】
AI, 信頼, 従業員エンゲージメント, 組織文化, データ活用

📖【書誌情報】
Weibel, A., Schafheitle, S., & van der Werff, L. (2023). Smart tech is all around us – Bridging employee vulnerability with organizational active trust-building. Journal of Management Studies, 62, 1914-1944.