貧しい起業家には「返済の猶予」が最強の武器となる

開発途上国の零細企業は、なぜ成長の罠から抜け出せないのか。その答えは、長らく「信用の欠如」と「保険の欠如」という、二つの大きな制約にあるとされてきた。事業を拡大するための資金が借りられない。そして、不作や病気といった不測の事態に備える保険がないために、リスクを取った投資に踏み出せない。

この二重の足かせを、同時に、そしてシンプルに解決する方法はないものか。もし、融資の「返済条件を柔軟にする」という、ささやかな契約の変更が、彼らのビジネスと人生に、劇的な変化をもたらすとしたら?

この根深く、複雑な課題に、私たちはどう向き合えばよいのだろうか。

なぜ、あなたの会社の「画一的なルール」は、現場の可能性を殺すのか?

近年、日本でも、多様な働き方に対応するため、フレックスタイム制やリモートワークといった、より柔軟な労働制度を導入する企業が増えている。これは、画一的なルールが、従業員の生産性や創造性を阻害するという認識が広まってきたことの表れだろう。

しかし、この「柔軟性」の重要性は、なにも従業員の働き方に限った話ではない。金融の世界、特に、これまで厳格な返済スケジュールを「規律」の源泉としてきたマイクロファイナンスの領域においても、同様のパラダイムシフトが求められているのかもしれない。

バングラデシュの貧しい農村で、小さな仕立て屋を営む佐藤さんも、この「画一的なルール」の壁にぶつかっていた。彼女は、地元のマイクロファイナンス機関から融資を受け、新しいミシンを購入した。しかし、融資の返済は、毎月決まった額を、一日も遅れることなく支払わなければならない。雨季には客足が遠のき、収入が不安定になる彼女にとって、この厳格な返済義務は、常に大きなプレッシャーとなっていた。

「もっと性能の良いミシンを買えば、生産性は上がる。でも、そのためにはもっと大きな借金が必要になる。もし、来月、大きな注文が来なかったら…?」。佐藤は、リスクを取って事業を拡大することに、どうしても踏み切れずにいた。

このような課題が、世界中の何百万人もの零細起業家にとって他人事ではないのは、従来のマイクロファイナンスが、「規律」を重視するあまり、起業家が直面する「不確実性」を十分に考慮してこなかったからだ。毎月の厳格な返済義務は、確かに貸し倒れリスクを減らすかもしれない。しかし、それは同時に、起業家から「挑戦する自由」を奪い、彼らを現状維持の罠に閉じ込めてしまう、諸刃の剣なのである。

複雑な課題を構造的に捉えるための「思考の道具」

佐藤さんが直面したようなジレンマを、単なる個人のリスク許容度の問題として片付けるのではなく、構造的に分析するための思考の道具をいくつか紹介する。

「返済の柔軟性」という名のハイブリッド金融商品
融資契約において、借り手が返済を一時的に延期できるオプションを付与すること。これは、単なる融資(クレジット)ではない。収入が落ち込んだ時に返済を猶予できるという点で、一種の「保険(インシュアランス)」としても機能する。この「クレジット」と「保険」のハイブリッド的な性質が、起業家の二つの制約を同時に緩和する鍵となる。

「保険」としての機能:リスクテイクの促進
返済の柔軟性は、起業家がよりリスクの高い、しかしリターンの大きい投資(例えば、新しい技術の導入や、在庫の拡充)に踏み出すことを可能にする。なぜなら、もし事業が一時的にうまくいかなくても、返済を猶予することで、事業を清算せずに済むという安心感が生まれるからだ。これは、保険が人々のリスクテイクを促すのと同じメカニズムである。

「クレジット」としての機能:初期投資の拡大
返済の柔軟性は、特に、事業開始直後のキャッシュフローが厳しい時期に、大きな意味を持つ。最初の数ヶ月の返済を猶予できれば、その分の資金を、事業の立ち上げに必要な初期投資に回すことができる。これにより、より大きな規模で事業を開始することが可能になり、成長の軌道に乗りやすくなる。

たった2ヶ月の「猶予」が、人生を変えた

この問いに対し、Battaglia, Gulesci, and Madestam (2024)が経済学のトップジャーナルであるThe Review of Economic Studiesで発表した論文は、バングラデシュの零細起業家を対象とした大規模なフィールド実験を通じて、この問題に力強い答えを提示している。この研究は、世界最大級のマイクロファイナンス機関BRACと協働し、融資契約に「最大2ヶ月間の返済猶予オプション」を付与するという、シンプルな介入が、借り手のビジネスと生活にどのような影響を与えるかを、ランダム化比較試験(RCT)という厳密な手法で検証したものである。

この研究が私たちに見せてくれるのは、金融契約における、ささやかだが思慮深い「柔軟性」のデザインが、いかにして人々の潜在能力を解き放ち、貧困からの脱出を可能にするかという、希望に満ちた光景だ。

1. 「返済の柔軟性」は、ビジネスを劇的に成長させた

研究が明らかにした最も重要な事実は、返済猶予オプションを与えられた零細起業家(伝統的なマイクロファイナンスの顧客)のビジネスが、対照群と比較して、著しく成長したということだ。

彼らの事業資産は51%、売上は87%、そして利益は25%も増加した。これは、返済のプレッシャーから解放された起業家たちが、より積極的に事業投資を行い、それが実を結んだことを示している。

2. その原動力は、「保険」効果によるリスクテイクの促進だった

なぜ、これほどの成長が実現したのか。研究チームは、そのメカニズムが、主に「保険」としての機能にあることを突き止めた。

返済猶予オプションを与えられた起業家は、よりリスクの高い、しかし収益性の高い事業活動へとシフトしていたのだ。彼らの売上の変動性は2倍になり、事業がうまくいった者は大きな利益を得る一方で、うまくいかなかった者は対照群よりも低い収益に甘んじるという、ハイリスク・ハイリターンな分布が確認された。これは、返済の柔軟性が、彼らに「挑戦する勇気」を与えたことの、何よりの証拠である。

3. 驚くべきことに、貸し倒れ率は「低下」した

よりリスクの高い事業への挑戦は、通常、貸し倒れ率の上昇を招くはずだ。しかし、この実験では、驚くべきことに、返済猶予オプションを与えられたグループの貸し倒れ率は、むしろわずかに「低下」した。

この発見は、マイクロファイナンス業界の長年の常識を覆すものである。厳格な返済規律こそが貸し倒れを防ぐという考えに対し、この研究は、起業家のキャッシュフローに寄り添う「柔軟性」こそが、結果として、より健全な返済行動に繋がる可能性を示唆している。

4. ただし、この「魔法」は、より大きな企業には効かなかった

一方で、この「返済の柔軟性」という魔法は、万能ではなかった。同じ実験を、より規模の大きい、担保付きの融資を受けている中小企業に対して行ったところ、ビジネスの成長に対する有意な効果は見られなかった。

研究チームは、その理由を、大企業が抱える「その他の固定的支払い義務(家賃、光熱費、人件費など)」にあると推測している。彼らにとっては、融資返済の猶予だけでは、事業のリスクを十分にカバーできず、大胆なリスクテイクには繋がらなかったのだ。この事実は、金融商品のデザインが、対象となる企業の規模や状況に応じて、きめ細かく調整される必要があることを示している。

この「バングラデシュの教訓」は、対岸の火事ではない

もちろん、どのような優れた研究も、それ一つで全てを語ることはできない。Battagliaらの研究は、バングラデシュのマイクロファイナンスという特定の文脈を対象としており、この結果が、制度や文化の異なる日本の金融市場に、そのまま当てはまるかは慎重に考える必要がある。

しかし、この研究が投げかける本質的な問いは、国や産業を越えて普遍的な重要性を持つ。「私たちが提供する金融サービスや、あるいは社内のルールは、本当に顧客や従業員の現実のニーズに寄り添っているだろうか。良かれと思って設定した『厳格なルール』が、皮肉にも、彼らの成長の可能性を縛り付けてはいないだろうか」。この問いに、私たちは真剣に向き合う必要がある。

「規律」と「柔軟性」の最適なバランスを求めて

では、完璧な答えがないとわかった上で、私たちはこの複雑な問題とどう向き合えばよいのだろうか。

ここまでの話から見えてくるのは、金融商品や組織のルール設計において、これまで絶対的な善とされてきた「規律」や「画一性」が、必ずしも最適解ではないという、揺るぎない事実だ。重要なのは、規律か柔軟か、という二者択一の議論ではない。対象となる人々の状況やニーズに応じて、その最適なバランスを見つけ出し、彼らが自らの潜在能力を最大限に発揮できるような「環境」をデザインするという、新しい視点を持つことなのかもしれない。

最初のステップ:あなたの会社の「見えざる制約」を可視化する

  • 私たちの会社が、顧客や従業員に課しているルール(契約条件、勤務規則、評価制度など)の中で、彼らの「リスクテイク」や「挑戦」を、意図せずして阻害しているものはないだろうか。

  • 私たちは、ルールの「厳格さ」を、その目的(例:リスク管理)と、それがもたらす副作用(例:イノベーションの停滞)とを天秤にかけた上で、設計しているだろうか。

  • 現場のマネージャーは、画一的なルールを適用するだけでなく、個々の状況に応じて、それを柔軟に運用する裁量を与えられているだろうか。

次のステップ:チームで「成長を促す柔軟性」をデザインする

個人の内省から得た気づきは、チームの対話を通じて初めて、組織の力へと昇華する。以下の論点を、次の戦略会議のテーブルに乗せてみてはどうだろうか。

  • 金融商品の再設計: 私たちの金融商品は、顧客のキャッシュフローの変動性を、十分に考慮しているだろうか。返済スケジュールの柔軟化や、一時的な返済猶予オプションを導入することで、顧客の事業成長を、より効果的に支援できないだろうか。

  • 人事制度の柔軟化: 新規事業や挑戦的なプロジェクトに取り組む従業員に対して、短期的な成果だけでなく、そのプロセスや学習を評価する、より柔軟な評価制度を導入できないだろうか。失敗を許容し、そこからの学びを奨励する文化を、どう醸成するか。

  • 「選択の自由」の提供: すべての顧客や従業員に画一的なルールを課すのではなく、複数の選択肢(例えば、固定金利と変動金利、厳格な勤務時間とフレックスタイム)を提示し、彼らが自らの状況に最も適したものを「選択」できるようにすることはできないだろうか。

#️⃣【タグ】
マイクロファイナンス, フィールド実験, 契約理論, リスクテイク, 貧困削減

📖【書誌情報】
Battaglia, M., Gulesci, S., & Madestam, A. (2024). Repayment flexibility and risk taking: Experimental evidence from credit contracts. The Review of Economic Studies, 91(5), 2635–2675.