「Fail fast, fail often(早く失敗しろ、頻繁に失敗しろ)」。シリコンバレーで生まれたこの言葉は、今や世界中の起業家たちのマントラとなった。不確実性の高い新規事業において、完璧な計画を練るよりも、まず行動し、小さな失敗から素早く学び、方向転換することの重要性を、私たちは頭では理解している。
しかし、現実にはどうだろうか。一度始めた事業への愛着や、これまでの投資を無駄にしたくないという「サンクコストの呪縛」に囚われ、明らかに成功の見込みが薄いプロジェクトを、いつまでも引きずってはいないだろうか。なぜ、私たちは「損切り」がこれほどまでに苦手なのか。そして、もし、この人間的な弱さを克服し、より合理的な「見切り」を可能にする思考法があるとしたら、それはどのようなものだろうか。
この根深く、複雑な課題に、私たちはどう向き合えばよいのだろうか。
なぜ、あなたの会社の「撤退基準」は、機能しないのか?
近年、日本でも大企業を中心に、イノベーションを加速させるため、社内ベンチャー制度やアクセラレータープログラムが数多く立ち上げられている。しかし、その多くが直面するのが、「失敗したプロジェクトを、いかにして円滑に終了させるか」という、極めてデリケートな問題だ。
例えば、ある大手製造業では、新規事業の「ステージゲート法」による管理を導入している。各開発段階の終わりに設けられたゲートで、プロジェクトの継続可否を客観的な基準で判断し、見込みのない事業からは早期に撤退することを目的としている。
しかし、この制度は、必ずしも意図した通りには機能していない。新規事業を担当する佐藤さんも、この問題に直面していた。彼女のチームが手がけるプロジェクトは、当初の計画通りに進んでおらず、市場からの反応も芳しくない。データは、明らかに「撤退」を示唆している。しかし、佐藤は決断を下せずにいた。
「ここまで時間と情熱を注いできたんだ。もう少し続ければ、きっとうまくいくはずだ」。彼女の心の中では、客観的なデータと、プロジェクトへの個人的な思い入れとが、激しくせめぎ合っていた。上司もまた、「失敗の責任を取りたくない」という思いから、明確な判断を避け続けている。
このような課題が多くの組織で他人事ではないのは、事業の「撤退」という意思決定が、単なる合理的な計算だけでなく、人間の認知バイアスや、組織の政治力学といった、極めて「非合理的」な要因に強く影響されるからだ。特に、自らのアイデアに強い信念を持つ起業家や、プロジェクトに深くコミットしてきた担当者にとって、「失敗を認める」ことは、自己否定にも繋がりかねない、痛みを伴う行為である。この心理的な障壁を乗り越えない限り、どんなに精緻な撤退基準も、絵に描いた餅に終わってしまう。
複雑な課題を構造的に捉えるための「思考の道具」
佐藤さんが直面したようなジレンマを、単なる個人の意思の弱さの問題として片付けるのではなく、構造的に分析するための思考の道具をいくつか紹介する。
「科学者」として思考する起業家
これは、起業家が自らの事業アイデアを、検証されるべき「仮説」として捉え、客観的なデータに基づいて、その仮説を冷静に「テスト」するというアプローチである。この「科学的アプローチ(Scientific Approach)」は、事業への個人的な思い入れを排し、より合理的な意思決定を可能にする。
期待値の「下方修正」という学習プロセス
科学的アプローチを実践する起業家は、事業の現実を直視し、当初の楽観的な見通しを、データに基づいて冷静に「下方修正」していく。この「期待値の調整」こそが、学習の本質である。このプロセスを通じて、彼らは、見込みのないプロジェクトを早期に見切り、固執することから自由になる。
「資源の再配分」としての撤退
科学的アプローチにおいて、プロジェクトの「撤退(Termination)」は、単なる「失敗」ではない。それは、見込みのない事業に投下していた貴重な資源(時間、資金、人材)を解放し、より有望な、新たな機会へと「再配分」するための、極めて合理的な戦略的判断なのである。
「科学的思考」が、起業家を「損切りの達人」に変える
この問いに対し、Coali, Gambardella, and Novelli (2024)がイノベーション研究のトップジャーナルであるResearch Policyで発表した論文は、イタリアの382人の起業家を対象とした2つのランダム化比較試験(RCT)という、極めて信頼性の高い手法を用いて、この問題の核心に迫った。この研究は、起業家の一部に「科学的アプローチ」を体系的にトレーニングし、その後の彼らの意思決定と、事業の長短期的な成果を、トレーニングを受けなかった対照群と比較したものである。
この研究が私たちに見せてくれるのは、科学的思考という「心のOS」をインストールされた起業家が、いかにして感情的な罠を乗り越え、より賢明な「損切り」を行い、そして最終的により大きな成功を掴むかという、力強い物語だ。
1. 「科学的」な起業家は、見込みのない事業を「より早く」見切る
まず、研究が明らかにしたのは、科学的アプローチのトレーニングを受けた起業家(実験群)は、受けていない起業家(対照群)と比較して、プロジェクトを「より高い確率で、より早期に」中止するということだ。
これは、一見すると、トレーニングが起業家を過度に悲観的にし、挑戦する意欲を削いでしまったかのように見えるかもしれない。しかし、物語はここで終わらない。
2. その背景には、現実を直視する「期待値の冷静な下方修正」がある
なぜ、彼らはより早く事業を諦めるのか。研究チームは、その心理的なメカニズムを、起業家自身の「期待値」の変化を追跡することで解き明かした。
実験群の起業家は、プロジェクトの中止を決定する前に、その事業の価値に対する自らの期待値を、対照群よりも、より早く、そしてより大幅に「下方修正」していたのである。これは、彼らが、客観的なデータに基づいて、自らのアイデアの限界を冷静に認識し、学習していたことの証左である。彼らは、希望的観測にすがるのではなく、科学者のように、現実を直視していたのだ。
3. 彼らが捨てるのは「質の低い」事業だけである
では、彼らの「見切り」は、本当に正しかったのだろうか。もしかしたら、彼らは、本来は成功する可能性があった「金の卵」まで、過度に批判的な目で見て、捨ててしまっていたのではないか。
この疑問を検証するため、研究チームは、中止されたプロジェクトの「客観的な質」を、外部の専門家による評価や、外部資金の獲得実績といった指標で測定した。その結果、驚くべきことに、実験群が中止したプロジェクトの質は、対照群が中止したものと、何ら変わらなかった。
この発見は、科学的アプローチが、起業家を単に悲観的にするのではなく、プロジェクトの価値を「より正確に」見抜く力を与えることを、力強く示唆している。彼らは、無差別に事業を諦めるのではなく、本当に見込みのない事業だけを、的確に、そして早期に、見切っていたのである。
4. そして、「損切り」で得た資源を、次なる挑戦へと再投資する
そして、この研究の最も重要な発見は、この「賢明な損切り」が、起業家の「次なる挑戦」へと繋がっていたことだ。
トレーニングから5年後の追跡調査で、実験群の起業家は、対照群に比べて、より多くの「新しい事業アイデア」を生み出し、そして、当初のプロジェクトを継続していた場合でも、それが法人化された「本物のベンチャー企業」へと成長している確率が、有意に高いことがわかった。
これは、早期の撤退が、決してキャリアの終わりを意味するものではないことを示している。むしろ、それは、限られた資源を、より有望な機会へと再配分し、最終的により大きな成功を掴むための、極めて合理的な戦略なのである。
この「イタリアの教訓」は、対岸の火事ではない
もちろん、どのような優れた研究も、それ一つで全てを語ることはできない。Coaliらの研究は、イタリアのアーリーステージの起業家という、特定の集団を対象としている。この「科学的アプローチ」が、より成熟した大企業の新規事業部門や、異なる文化を持つ日本の組織に、そのまま適用できるかは、さらなる検証が必要だろう。
しかし、この研究が投げかける本質的な問いは、組織の規模や国境を越えて、普遍的な重要性を持つ。「私たちは、組織として、『失敗から学ぶ』ための、どのような『OS』を持っているだろうか。そして、そのOSは、個人の感情的なバイアスを乗り越え、組織全体の資源を、常に最も有望な機会へと最適に配分することを、可能にしているだろうか」。この問いに、私たちは真剣に向き合う必要がある。
「固執」から「学習」へ:失敗を資産に変える組織の作り方
では、完璧な答えがないとわかった上で、私たちはこの複雑な問題とどう向き合えばよいのだろうか。
ここまでの話から見えてくるのは、イノベーション・マネジメントの核心が、もはや「失敗しないこと」ではなく、「いかに賢く失敗し、そこから学ぶか」にあるという、揺るぎない事実だ。重要なのは、個々のプロジェクトの成否に一喜一憂することではない。失敗を、次の成功のための「学習資産」として組織に蓄積し、常にポートフォリオ全体を最適化し続けるという、新しい視点を持つことなのかもしれない。
最初のステップ:あなたの組織の「サンクコストの呪縛」を診断する
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私たちの組織では、一度開始したプロジェクトを、たとえ見込みが薄くても、中止することが困難な文化や制度(例:失敗を過度に非難する文化、減点主義の人事評価)はないだろうか。
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プロジェクトの継続・中止の判断は、客観的なデータに基づいて行われているだろうか。それとも、担当者の「情熱」や、上司の「メンツ」といった、非合理的な要因に左右されてはいないだろうか。
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撤退したプロジェクトの経験や知見は、組織の共有財産として、次のプロジェクトに活かされているだろうか。それとも、「失敗」の烙印と共に、闇に葬り去られてはいないだろうか。
次のステップ:チームで「学習するポートフォリオ」を設計する
個人の内省から得た気づきは、チームの対話を通じて初めて、組織の力へと昇華する。以下の論点を、次の新規事業開発プロセスの見直しのテーブルに乗せてみてはどうだろうか。
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「仮説検証」の文化を根付かせる: すべての新規事業を、検証されるべき「仮説の束」として定義し、その仮説を検証するための「小さな実験」を、迅速に、そして安価に繰り返すことを、組織の標準的なプロセスとして位置づけることはできないだろうか。
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「撤退」をポジティブに再定義する: プロジェクトの中止を「失敗」ではなく、「学習の完了」あるいは「ピボット(方向転換)の機会」として、ポジティブに捉える共通言語を、組織内に醸成することはできないか。賢明な撤退を行ったチームを、むしろ賞賛するような文化を、どうすれば作れるだろうか。
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「失敗のデータベース」を構築する: 撤退したプロジェクトについて、なぜその仮説が棄却されたのか、どのようなデータがその判断の根拠となったのか、そして、そこからどのような教訓が得られたのかを、体系的に記録し、誰もがアクセスできる「失敗のデータベース」を構築することはできないだろうか。
#️⃣【タグ】
科学的アプローチ, 意思決定, プロジェクト・セレクション, 失敗学, 起業家精神
📖【書誌情報】
Coali, A., Gambardella, A., & Novelli, E. (2024). Scientific decision-making, project selection and longer-term outcomes. Research Policy, 53(10), 105022.