私たちは、組織における「知」の源泉を、長年の経験を通じて培われたベテランの「暗黙知」に求めてきた。若手は、その背中を追い、試行錯誤を繰り返しながら、一人前のプロフェッショナルへと成長していく。この、時間と労力をかけた徒弟制度的な「知の継承」こそが、組織の競争力を支える根幹であると、私たちは信じてきた。
しかし、もしAIが、このゲームのルールを根底から覆すとしたら?もし、AIが人間の一生をかけても到達できないほどの膨大な経験を瞬時に学習し、常に「最適解」を提示できるとしたら、ベテランの経験知は、その価値を失ってしまうのだろうか。そして、若手はAIを「師」とすることで、ベテランを凌駕するほどのスピードで成長を遂げるのだろうか。
この根深く、複雑な課題に、私たちはどう向き合えばよいのだろうか。
なぜ、あなたの会社の「ベテランの勘」は、もはや通用しないのか?
近年、将棋界ではAIを活用した研究が棋士の間で常識となり、若手棋士の台頭が著しい。藤井聡太氏をはじめとする新世代の棋士たちは、AIが示す膨大な選択肢の中から最善手を見つけ出す能力に長けており、従来の定跡や大局観といった、ベテラン棋士が経験則で培ってきた「暗黙知」を次々と打ち破っている。
この現象は、将棋という特殊な世界だけの話ではない。あらゆる知的労働の現場で、同様の「世代交代」が静かに、しかし確実に進行している。
例えば、大手コンサルティングファームで働くベテランの佐藤さんも、この変化の波を肌で感じていた。彼女は、長年の経験に裏打ちされた鋭い洞察力で、数々の難題を解決してきた。しかし、最近入社した若手の高橋くんは、佐藤が数週間かけて分析するような市場データを、AIを使ってわずか数時間で処理し、佐藤も気づかなかったようなインサイトを導き出してくる。
「私の経験は、もはや何の役にも立たないのだろうか…」。佐藤は、自らの存在価値が揺らぐような、深い不安に襲われていた。
このような課題が多くの組織で他人事ではないのは、私たちが「経験」というものを、絶対的な価値として神聖視しすぎているからだ。しかし、環境が複雑化し、変化のスピードが加速する現代において、過去の成功体験に基づく「ベテランの勘」は、時に意思決定を誤らせるバイアスともなりうる。AIは、この人間的なバイアスから自由であり、常にデータに基づいた客観的な最適解を提示する。このAIという「新しい知の源泉」と、どう向き合うか。それが、あらゆる組織と個人の未来を左右する。
複雑な課題を構造的に捉えるための「思考の道具」
佐藤さんが直面したようなジレンマを、単なる世代間の能力差として片付けるのではなく、構造的に分析するための思考の道具をいくつか紹介する。
AIによる「知のインストラクター」
AIは、単に人間の作業を補助する「アシスタント」に留まらない。人間が到達し得ないレベルのパフォーマンスを示すAIは、その思考プロセスやアウトプット自体が、人間にとっての「教材」となり、スキル向上のための「インストラクター」として機能しうる。
学習における「世代効果」
新しいテクノロジーに対する受容度や学習能力は、年齢によって異なる傾向がある。若年層は、デジタルネイティブとして新しいツールを柔軟に受け入れ、試行錯誤の中からその活用法を直感的に学んでいく。一方、高年齢層は、既存の知識や経験に固執し、新しいやり方への適応に抵抗を感じることがある。この「世代効果」が、AIから学ぶ能力の差を生み出す可能性がある。
不確実性と学習効果
意思決定における不確実性が高い状況ほど、AIから学ぶことの価値は大きくなる。選択肢が膨大で、将来の結果を予測することが困難な状況において、AIが示す確率的な評価は、人間の直感を補い、より質の高い意思決定を可能にする。
75万手が生んだ、AI時代の「新たな定跡」
この問いに対し、Choiらの研究チームが経営学のトップジャーナルであるStrategic Management Journalで2025年に発表した論文は、囲碁の世界を舞台に、AIが人間の専門家の意思決定能力をいかにして向上させるかを、大規模なデータを用いて実証した、画期的なものである。この研究は、2017年に最強の囲碁AIプログラム(APG)が公開された前後で、プロ棋士たちの打ち筋がどう変化したかを、749,190手もの棋譜データを解析することで追跡した。
この研究が私たちに見せてくれるのは、AIが単なる「計算機」ではなく、人間の「知」を新たな次元へと引き上げる「触媒」として機能するという、驚くべき光景だ。
1. AIは、プロ棋士の「棋質」を劇的に向上させた
研究が明らかにした最も重要な事実は、AIプログラムの登場後、プロ棋士たちの「指し手の質」が、統計的に有意に向上したということだ。AIが示す「最適手」との一致率が高まり、悪手や致命的なミスの数が減少した。
この発見が示唆するのは、人間が、自らの能力を遥かに超えるAIから「学ぶ」ことができるという、力強い事実である。棋士たちは、AIとの対局や研究を通じて、これまで人間が気づかなかった新しい戦略や価値観を吸収し、自らの意思決定能力をアップデートさせていたのだ。これは、AIが人間のスキルを代替するだけでなく、むしろそれを「増強」する存在となりうることを示している。
2. 最も学んだのは「若手」だった
しかし、その学習効果は、すべての棋士に平等ではなかった。研究によれば、AIの登場によって最も大きく棋力を向上させたのは、「若手」の棋士たちだったのである。
これは、若手棋士が、デジタルネイティブとしての素養を活かし、新しいテクノロジーであるAIを、より柔軟に、そして積極的に学習ツールとして活用した結果だと考えられる。彼らは、ベテラン棋士が長年の経験で培ってきた「定跡」や「大局観」といった既存の知識に固執することなく、AIが示す新しい「正解」を貪欲に吸収した。この事実は、AI時代における「経験の価値」の変容と、学習能力における「世代間格差」の存在を、残酷なまでに浮き彫りにする。
3. ただし、ベテランも、そして「下手」な棋士ほど、恩恵は大きかった
一方で、この研究は希望の光も示している。AIからの恩恵は、若手だけに限定されたわけではない。ベテランも含め、あらゆるスキルレベルの棋士が、程度の差こそあれ、その棋質を向上させていた。
特に興味深いのは、もともとの棋力がそれほど高くない棋士ほど、AIから得られる限界的な便益(伸びしろ)が大きかったという点だ。これは、AIが、トッププレイヤーだけでなく、より広い層の専門家のスキルを底上げする「教育の民主化」ツールとして機能しうることを示唆している。
4. AIの価値は、「不確実性」が高い序盤でこそ最大化する
さらに、AIによる学習効果が最も顕著に現れたのは、ゲームの「序盤」であった。囲碁の序盤は、選択肢が膨大で、局面が最も不確実な段階である。このような状況下で、人間の直感や経験則が限界に達する一方、AIの圧倒的な計算能力が、人間では思いもよらないような、しかし極めて有効な指し手を発見する。
この発見は、ビジネスにおける意思決定にも重要な示唆を与える。すなわち、AIの価値は、未来の予測が困難で、不確実性が高い戦略的な意思決定の初期段階においてこそ、最大化されるということだ。
この「囲碁の世界の物語」は、あなたの職場の未来図か?
もちろん、どのような優れた研究も、それ一つで全てを語ることはできない。Choiらの研究は、囲碁という、ルールが明確で、勝敗が客観的に測定できる、極めて特殊な環境を対象としている。この結果が、より曖昧で、複雑な人間関係が絡み合う、現実のビジネスの意思決定に、そのまま当てはまるかは慎重に考える必要がある。
また、この研究はAIが人間のスキルを「向上させる」側面に焦点を当てているが、人間がAIに過度に依存し、自ら思考することを放棄してしまう「スキル退化」のリスクについては、十分に検証されていない。
結局のところ、この研究は最終的な答えではなく、むしろ「私たちは、AIという新しい『知の巨人』の肩の上に立ち、自らの能力をどこまで拡張できるのか。そして、その過程で失われるものは何か」という、より本質的な問いを私たちに投げかけているのかもしれない。
「経験」が「負債」になる時代を、どう生き抜くか
では、完璧な答えがないとわかった上で、私たちはこの複雑な問題とどう向き合えばよいのだろうか。
ここまでの話から見えてくるのは、AI時代におけるプロフェッショナリズムの核心が、もはや「過去の経験の蓄積」ではなく、「未来の学習能力」へと、劇的にシフトしていくという、揺るぎない事実だ。重要なのは、AIを自らの経験を脅かす「脅威」として捉えるのではなく、自らの認知能力を拡張し、学習を加速させるための「最強のツール」として使いこなすという、新しい姿勢を持つことなのかもしれない。
最初のステップ:あなたの「経験」という名の色眼鏡を外す
-
私たちは、自らの過去の成功体験や「ベテランの勘」に、無意識のうちに固執していないだろうか。
-
AIが示す、自らの直感とは異なる「意外な一手」に対して、私たちはそれを「間違い」として切り捨てるのではなく、「新しい学びの機会」として謙虚に検討する姿勢を持っているだろうか。
-
私たちの組織では、若手がAIを活用してベテランの意見に異を唱えることが、心理的に安全な環境にあるだろうか。
次のステップ:チームで「人間とAIの協調学習モデル」を設計する
個人の内省から得た気づきは、チームの対話を通じて初めて、組織の力へと昇華する。以下の論点を、次の戦略会議のテーブルに乗せてみてはどうだろうか。
-
リバース・メンタリングの導入: AIを使いこなす若手を「メンター」とし、ベテラン社員がAIの活用法を学ぶ「リバース・メンタリング」の制度を導入できないだろうか。
-
「不確実性」へのAI活用: チームの意思決定プロセスにおいて、特に不確実性が高く、過去の経験が通用しない領域(例:新規事業の初期構想、未知の市場への参入戦略など)で、AIを「壁打ち相手」として積極的に活用する文化を醸成できないか。
-
評価基準の再設計: 従業員の評価基準を、単なる経験年数や過去の実績から、「AIを活用していかに新しい知識を学び、チームの意思決定の質を高めたか」という「学習能力」へとシフトさせることはできないか。
#️⃣【タグ】
人工知能(AI), 意思決定, 組織学習, 世代間格差, 暗黙知
📖【書誌情報】
Choi, S., Kang, H., Kim, N., & Kim, J. (2025). How does artificial intelligence improve human decision-making? Evidence from the AI-powered Go program. Strategic Management Journal, 46, 1523-1554.