私たちは、グローバルな人材獲得競争の時代を生きている。優秀な人材こそがイノベーションを生み、経済成長を牽引する――。この認識は、今や世界中の政府や企業の共通言語となった。そして、その「優秀さ」を測る最も一般的な指標として、私たちは「学歴」、特にどの大学を卒業したかという「大学のブランド」に、絶大な信頼を置いてきた。
しかし、もしその「ブランド」が、卒業生の真の能力や価値を、必ずしも正しく反映していないとしたら?もし、世界大学ランキングでは決して上位に現れない、ある国の大学の卒業生が、世界で最も稼ぐ人材になっているとしたら、私たちの人材戦略、教育政策、そして移民政策は、どう変わるべきなのだろうか。
この根深く、複雑な課題に、私たちはどう向き合えばよいのだろうか。
なぜ、あなたの会社の「学歴フィルター」は、最高の人材を見逃すのか?
近年、英国が世界のトップ大学の卒業生を対象とした新しいビザ制度を導入するなど、先進国は「質の高い」移民を惹きつけるための政策を競い合っている。日本でも、特定の大学の卒業生に対して、高度専門職ビザの取得要件を緩和する動きが見られる。これらの政策の根底にあるのは、「有名大学の卒業生=優秀な人材」という、一見すると揺るぎない「常識」である。
しかし、この常識は、本当にグローバルな現実を捉えているだろうか。
外資系IT企業でアジア太平洋地域の人材採用を担当する佐藤さんも、この問題に直面していた。彼女の会社では、採用候補者を評価する際、出身大学の世界ランキングを重要な参考指標としてきた。しかし、最近、佐藤はある事実に気づき、愕然とする。現場で最も高いパフォーマンスを上げているエンジニアたちの多くが、世界ランキングでは無名に近い、インド工科大学(IIT)の出身者だったのである。
「なぜ、私たちの評価指標は、彼らのような最高の人材を見過ごしてきたのか?大学の『真の価値』は、ランキングでは測れない、何か別のものにあるのではないか?」。佐藤は、自社の採用戦略の根幹を、見直す必要性を感じていた。
このような課題が多くのグローバル企業で他人事ではないのは、私たちが「大学の質」を、研究論文の数や教員の評判といった、供給側の指標で測りがちだからだ。しかし、ビジネスの世界で本当に重要なのは、その大学が、どれだけ市場価値の高い「人材(人的資本)」を輩出しているかという、需要側の視点である。この二つの間には、特に国境を越えた人材市場において、大きなギャップが存在する。このギャップに無自覚であるとき、私たちの「学歴フィルター」は、最も価値のある原石を見逃す、目の粗いザルになってしまうのだ。
複雑な課題を構造的に捉えるための「思考の道具」
佐藤さんが直面したようなジレンマを、単なる採用担当者の目利きの問題として片付けるのではなく、構造的に分析するための思考の道具をいくつか紹介する。
「卒業生の質」という新しい物差し
大学の価値を、その卒業生が生み出す平均的な「人的資本(Human Capital)」の量で測るという考え方。本稿では、これを「卒業生の質(College Graduate Quality)」と呼ぶ。人的資本は、直接測定することが難しいため、その代理指標として、労働市場における「賃金」を用いる。同じ労働市場で働くならば、人的資本が高い人材ほど、高い賃金を得るはずだ、という経済学の基本的な考え方に基づいている。
グローバルな賃金を「同じ土俵」で比べる
しかし、異なる国で働く人々の賃金を、単純に比較することはできない。なぜなら、賃金は、個人の人的資本だけでなく、その国全体の生産性や物価水準といった「場所の要因」にも大きく左右されるからだ。この「場所の要因」を取り除くため、国境を越えて移住した労働者の、移住前後の賃金変化のデータを利用する。これにより、世界中の大学の卒業生の賃金を、「もし全員が同じ国で働いたとしたら」という、共通の土俵の上で比較することが可能になる。
「頭脳流出」の質的側面
開発途上国から先進国への人材流出、いわゆる「頭脳流出(Brain Drain)」は、長らくその「量」(何人の大卒者が流出したか)で語られてきた。しかし、本当に重要なのは、その「質」である。もし、流出しているのが、その国で最も優秀な人材ばかりだとしたら、その国が被るダメージは、単なる人数の減少よりも、遥かに深刻なものとなる。
220万人のデータが描く、残酷なまでの「教育格差」
この問いに対し、Martellini, Schoellman, and Sockin (2024)が経済学のトップジャーナルであるJournal of Political Economyで発表した論文は、世界48カ国、2,800以上の大学の卒業生、220万人分もの膨大なキャリアデータを分析することで、この問題に全く新しい光を当てた。この研究は、キャリアSNS「Glassdoor」の匿名データを用い、世界中の大学卒業生の「質」を、彼らがグローバルな労働市場で得る賃金から直接測定するという、前例のない試みである。
この研究が私たちに見せてくれるのは、大学教育という名の「人的資本工場」が生み出す製品の「品質」に、国家間で、そして大学間で、私たちが想像する以上に巨大で、残酷なまでの格差が存在するという、揺るぎない事実だ。
1. 最富裕国と最貧国の「大卒の質」には、50%もの格差が存在する
研究が明らかにした最も衝撃的な事実は、最も豊かな国々の大学卒業生は、最も貧しい国々の大学卒業生と比較して、平均して50%も多くの人的資本(稼ぐ力)を持っているということだ。
この発見が示唆するのは、グローバルな経済格差の根源に、深刻な「教育の質の格差」が存在するということだ。貧しい国は、単に大卒者の「数」が少ないだけでなく、一人ひとりの大卒者が持つ「質」においても、豊かな国に大きく水をあけられている。この二重のハンディキャップが、貧困の罠からの脱出を、より一層困難にしている。
2. 「頭脳流出」は、国の最も優秀な層を根こそぎ奪っていく
さらに、この格差は、国境を越えた人材の移動によって、さらに拡大する。研究によれば、貧しい国から豊かな国へと移住する大卒者は、その国に残る大卒者と比較して、極めて優秀な層に偏っている(「正のセレクション」が働いている)。
例えば、ある貧しい国から移住した大卒者は、その国に残った大卒者よりも、平均して50%も高い人的資本を持っていた。これは、「頭脳流出」が、単なる数の問題ではなく、国の未来を担うべき最も優秀なエリート層を、文字通り根こそぎ奪い去っていく、極めて深刻な質の問題であることを示している。
3. 大学の「真の価値」は、世界ランキングとは全く異なる
そして、この研究は、私たちが慣れ親しんできた「世界大学ランキング」の幻想を打ち砕く。卒業生の「稼ぐ力」で測定した大学の質は、従来のランキングとは大きく異なる様相を呈した。
特筆すべきは、インド工科大学(IIT)をはじめとする、インドや中国の理工系大学の躍進である。これらの大学の卒業生は、ハーバードやスタンフォードといった米国のトップ大学の卒業生に匹敵する、あるいはそれを凌駕するほどの高い人的資本を持っていることが明らかになった。これは、従来のランキングが、研究成果や評判といった指標に偏っており、グローバルな労働市場における卒業生の真の価値を、正しく捉えきれていないことを示唆している。
4. 「卒業生の質」こそが、イノベーションと起業家精神の源泉である
最後に、この研究は、大学の「卒業生の質」が、単に個人の所得を高めるだけでなく、国全体の成長を牽引するイノベーションや起業家精神と、密接に結びついていることを示している。
卒業生の質が高い大学ほど、その卒業生の中から、発明家(特許取得者)や起業家、そして大企業の経営幹部が生まれる確率が、有意に高いことがわかった。これは、質の高い大学教育が、国の経済的繁栄の、まさに「源泉」であることを、データによって力強く証明したものである。
この「グローバル人材地図」は、何を意味するのか?
もちろん、どのような優れた研究も、それ一つで全てを語ることはできない。Martelliniらの研究は、Glassdoorという特定のプラットフォームのデータに依存しており、そのユーザー層が、必ずしも世界中の労働者を代表しているわけではない、という限界がある。
また、この研究が測定しているのは、あくまで卒業時点での「人的資本」であり、大学がどれだけの「付加価値」を与えたのか(セレクション効果と教育効果の分離)については、さらなる分析が必要だろう。
しかし、この研究が投げかける本質的な問いは、データの限界を越えて、私たちに重くのしかかる。「グローバルな知識経済の時代において、私たちは、いかにして自国の『人的資本工場』の品質を高め、そして、そこで生み出された最も価値のある製品(=人材)が、国外に流出するのを防ぐのか」。この問いに、私たちは真剣に向き合う必要がある。
「偏差値」から「稼ぐ力」へ:日本の大学は、世界で戦える人材を育てているか?
では、完璧な答えがないとわかった上で、私たちはこの複雑な問題とどう向き合えばよいのだろうか。
ここまでの話から見えてくるのは、大学の価値を測る物差しが、国内の「偏差値」や「評判」といった閉じた指標から、グローバルな労働市場における「稼ぐ力」という開かれた指標へと、根本的にシフトしていく未来像だ。重要なのは、過去の栄光に安住することではない。世界のトッププレイヤーたちと伍して戦えるだけの「質」を、私たちの大学が生み出せているのかを、常に問い続けるという、新しい姿勢を持つことなのかもしれない。
最初のステップ:あなたの組織の「人材ポートフォリオ」を点検する
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私たちの組織で活躍している人材は、どのような大学の出身者が多いだろうか。その分布は、従来の「有名大学」のリストと、この研究が示す「稼ぐ力のある大学」のリストとで、どのような違いがあるか。
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私たちの採用戦略は、無意識のうちに、国内の大学や、特定の国の大学に偏ってはいないだろうか。インド工科大学のような、まだ見ぬ「原石」が眠る大学に、私たちは目を向けているだろうか。
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私たちは、海外から採用した人材の「質」を、出身大学のブランド名だけで判断していないだろうか。彼らが持つ真の人的資本を、正しく評価する仕組みを持っているだろうか。
次のステップ:チームで「グローバル人材戦略」を再構築する
個人の内省から得た気づきは、チームの対話を通じて初めて、組織の力へと昇華する。以下の論点を、次の戦略会議のテーブルに乗せてみてはどうだろうか。
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採用ターゲットの多様化: 従来の採用ターゲット校リストを見直し、この研究が明らかにしたような、グローバル市場で高い価値を持つ、新たな大学群からの採用を、戦略的に強化できないだろうか。
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「頭脳獲得」戦略: 日本の大学を卒業した最も優秀な人材が、海外に流出するのを防ぎ、むしろ海外のトップ人材を日本に惹きつけるために、私たちの会社は何ができるだろうか。魅力的な報酬、挑戦的な仕事、そしてグローバルなキャリアパスを、私たちは提供できているだろうか。
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大学との連携強化: 国内の大学に対して、グローバル市場で通用する人材を育成するために、どのような働きかけができるだろうか。産業界のニーズを伝え、カリキュラムの共同開発や、実践的なインターンシップの機会を提供することはできないだろうか。
#️⃣【タグ】
人的資本, 大学教育, グローバル人材, 頭脳流出, イノベーション
📖【書誌情報】
Martellini, P., Schoellman, T., & Sockin, J. (2024). The global distribution of college graduate quality. Journal of Political Economy, 132(2), 434–483.