「金利が上がれば、金持ちは利子所得でさらに豊かになり、格差は広がる」。これは、経済学の教科書にも載っている、長年の「常識」だった。しかし、もしその常識が、現代の経済、特にイノベーションが成長を牽引する経済においては、もはや通用しないとしたら?もし、近年の世界的な「低金利」こそが、富裕層の中でもトップの、いわゆる「超富裕層」を、他の富裕層からさらに引き離し、格差を拡大させている真犯人だとしたら?
この根深く、複雑な課題に、私たちはどう向き合えばよいのだろうか。
なぜ、あなたの会社の「低金利ローン」は、社会の「格差」を広げるのか?
近年、日本銀行による長年の金融緩和政策により、日本は歴史的な低金利環境にある。これにより、企業は低いコストで資金を調達し、設備投資や研究開発を行いやすくなった。特に、新しいビジネスを立ち上げるスタートアップにとって、低金利は事業拡大の追い風となる。
しかし、この「低金利の恩恵」は、社会全体に平等に行き渡っているのだろうか。IT業界で急成長を遂げるスタートアップの創業者、佐藤さんも、この低金利の恩恵を享受してきた一人だ。彼女の会社は、銀行からの低利融資や、ベンチャーキャピタルからの大規模な出資を受けて、事業を急拡大させてきた。その結果、会社の評価額はうなぎのぼりとなり、佐藤自身の資産も、この数年で天文学的な額に膨れ上がった。
一方で、佐藤の会社の株式に投資している、古くからの資産家である田中さんは、最近の低金利に不満を抱いていた。銀行預金の金利はほぼゼロに等しく、国債の利回りも低い。かつてのように、資産を安全に、そして着実に増やすことが難しくなっている。「昔は、金さえ持っていれば、何もしなくても金が金を生んだものだが…」。田中は、時代の変化を嘆いていた。
この、佐藤さんと田中さんの対照的な姿こそが、現代の富の格差を象徴している。すなわち、低金利は、既存の資産からの不労所得で生活する「金利生活者(Rentier)」の富の成長を鈍化させる一方で、外部からの資金調達によって事業を拡大する「起業家(Entrepreneur)」の富の成長を、爆発的に加速させるのだ。そして、現代の富裕層のトップに君臨するのは、後者の「起業家」たちである。このような課題が多くの国で他人事ではないのは、グローバル化と金融技術の発展が、一部の成功した起業家に、かつてない規模の富の集中を可能にしたからだ。低金利は、彼らが事業を拡大するための「燃料」を、安価に、そして大量に供給する。その結果、彼らの富は雪だるま式に膨れ上がり、社会全体の富の分配を、ますます歪なものにしていく。
複雑な課題を構造的に捉えるための「思考の道具」
佐藤さんと田中さんの間の格差拡大を、単なる個人の能力や運の問題として片付けるのではなく、構造的に分析するための思考の道具をいくつか紹介する。
富の分布を測る「パレート指数」
富の分布、特にその「裾の長さ」、すなわち富裕層の中で、どれだけトップ層が突出しているかを示す指標。この指数が低いほど、トップ層への富の集中度が高く、格差が大きいことを意味する。近年の米国では、このパレート指数が低下傾向にあり、超富裕層が他の富裕層を置き去りにして、富を増やしていることが示されている。
企業の「ペイアウト利回り」と「レバレッジ」
企業の資金調達のあり方を示す二つの重要な指標。
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株式ペイアウト利回り(Equity Payout Yield): 企業が株主に対して、配当や自社株買いでどれだけ現金を還元したかを示す。成長段階にある企業は、事業拡大のために資金を必要とするため、外部から資金を調達し(株式発行)、この利回りはマイナスになることが多い。
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レバレッジ(Leverage): 企業の総資産が、自己資本(株式価値)の何倍あるかを示す。負債(借入)によって資金調達している企業ほど、この値は高くなる。
金利感応度を測る「サフィシェント・スタティスティック」
複雑な経済モデルを詳細に分析しなくても、いくつかの「観測可能な変数(Sufficient Statistic)」を組み合わせることで、金利の変化が富の格差(パレート指数)に与える影響を、直接的に推計する手法。これにより、理論と現実のデータとを、より透明性の高い形で結びつけることが可能になる。
低金利は、格差拡大の「犯人」だった
この問いに対し、Gomez and Gouin-Bonenfant (2024)が経済学のトップジャーナルであるEconometricaで発表した論文は、精緻な理論モデルと、米国のトップ富裕層に関する新しいデータを組み合わせることで、この問題の核心に迫った。
この研究が私たちに見せてくれるのは、低金利が、富裕層の中でも特に「起業家」タイプの富の成長を加速させ、結果として、超富裕層とその他の富裕層との間の格差、すなわち「パレート格差」を拡大させるという、これまでの常識を覆すメカニズムである。
1. 金利低下は「借り手」である起業家を利する
研究が明らかにした理論的なメカニズムは明快だ。金利(より一般的には、資本に対する要求収益率)が低下すると、二つの相反する効果が生まれる。
一つは、既存の資産を持つ「貸し手(金利生活者)」の富の成長率を低下させる効果。これは、伝統的な経済学が指摘してきた通りである。もう一つは、外部から資金を調達して事業を拡大する「借り手(起業家)」の資金調達コストを低下させ、彼らの富の成長率を加速させる効果だ。
そして、現代の富の頂点に立つのが、後者の「起業家」である以上、金利の低下は、トップ層の富の成長を加速させ、格差を拡大させる方向に働く。
2. トップ富裕層の「資金調達の歴史」が、格差拡大の大きさを決める
では、この効果は、 quantitativelyにどれほどの大きさなのだろうか。研究チームは、金利の変化がパレート格差に与える影響を測定するための「サフィシェント・スタティスティック(十分統計量)」を導出した。
その驚くほどシンプルな結論は、こうだ。格差拡大の大きさは、トップ富裕層に上り詰めた人々が、その生涯を通じて、どれだけ外部から資金調達(株式発行や負債)を行ってきたかに依存する。彼らが、事業の成長過程で、より多くの資金を、より低いコストで調達してきたほど、金利低下がもたらす恩恵は大きくなり、格差は拡大する。
3. 米国トップ100人のデータが示す、驚くべき事実
研究チームは、この理論的発見を検証するため、フォーブス誌が発表する米国の長者番付トップ100人のデータを基に、彼らが創業した企業の「資金調達の歴史」を、丹念に再構築した。
その結果、驚くべき事実が明らかになった。彼らが創業した企業は、その生涯を通じて、株主に配当を支払うどころか、むしろ株式を発行することで、巨額の資金を外部から「吸収」し続けていたのだ(生涯平均の株式ペイアウト利回りはマイナス2.2%)。彼らは、典型的な「借り手」だったのである。
4. 低金利は、近年の米国における格差拡大の約40%を説明する
この実証データと、先に導出したサフィシェント・スタティスティックを組み合わせることで、研究は最終的な結論を導き出す。1985年から2015年にかけて米国で観測された、要求収益率の約2%の低下は、同期間に生じたパレート格差の拡大の、実に約40%を説明できるというのだ。
これは、低金利が、単なる金融政策の道具ではなく、社会の富の分配構造を根底から変える、極めて強力な力であることを示している。
この「低金利の逆説」は、何を意味するのか?
もちろん、どのような優れた研究も、それ一つで全てを語ることはできない。Gomez and Gouin-Bonenfantの研究は、主に米国のトップ富裕層に焦点を当てており、このメカニズムが、より広い層や、異なる経済構造を持つ国々に、どの程度当てはまるかは、さらなる検証が必要だろう。
また、この研究は、低金利が格差を「拡大させる」というメカニズムを明らかにしたが、それが社会全体として「望ましい」ことなのかどうか、という価値判断を下しているわけではない。起業家精神を刺激し、経済成長を促進するという側面と、富の集中を招き、社会的な公正を損なうという側面とを、私たちは天秤にかける必要がある。
しかし、この研究が投げかける本質的な問いは、データの限界を越えて、私たちに重くのしかかる。「私たちは、金融政策がもたらす、意図せざる『分配への影響』に、どれだけ自覚的だろうか。そして、その影響を是正するための、新たな政策手段を持っているだろうか」。この問いに、私たちは真剣に向き合う必要がある。
「金利」という名の、見えざる再分配装置
では、完璧な答えがないとわかった上で、私たちはこの複雑な問題とどう向き合えばよいのだろうか。
ここまでの話から見えてくるのは、金利が、単なる経済の体温計ではなく、社会の富を「金利生活者」から「起業家」へと静かに移転させる、強力な「再分配装置」として機能しているという、揺るぎない事実だ。重要なのは、低金利の是非を二元論で語ることではない。その再分配効果を直視し、それがもたらす社会的な帰結に対して、私たちがどのような「セーフティネット」を用意すべきかを、議論することなのかもしれない。
最初のステップ:あなたの会社の「富の源泉」を問い直す
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私たちの会社の成長は、主に内部留保の再投資によって支えられているだろうか。それとも、外部からの積極的な資金調達によってドライブされているだろうか。
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私たちの会社は、低金利環境の「借り手」として、その恩恵を享受している側だろうか。それとも、余剰資金を運用する「貸し手」として、その不利益を被っている側だろうか。
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私たちの会社の経営者は、自らの富が、こうしたマクロ経済的な環境の変化と、どのように連動しているかを、自覚しているだろうか。
次のステップ:チームで「格差と成長のトレードオフ」を議論する
個人の内省から得た気づきは、チームの対話を通じて初めて、組織の力へと昇華する。以下の論点を、次の戦略会議のテーブルに乗せてみてはどうだろうか。
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金融政策の分配効果への感度: 中央銀行の金融政策の変更が、自社の資金調達コストや資産価値に、どのような影響を与えるか。そして、それが、自社の株主構成(機関投資家か、個人投資家かなど)を通じて、社会の富の分配に、間接的にどのような影響を与えているかを、私たちは分析しているだろうか。
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起業家精神と格差のバランス: 低金利が起業家精神を刺激するという側面を、私たちはどう評価すべきか。イノベーションを促進するための金融環境は、必然的にある程度の格差拡大を伴うという「トレードオフ」を、私たちは受け入れるべきなのだろうか。
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格差是正への企業の役割: もし、低金利がもたらす格差拡大が、社会の持続可能性を脅かすレベルにあるとしたら、企業として、それにどう貢献できるだろうか。例えば、従業員への利益配分の強化(賃上げやストックオプションの拡充)や、富裕層への課税強化といった政策に対する、企業のスタンスはどうあるべきか。
#️⃣【タグ】
富の格差, パレート分布, 金利, 起業家精神, サフィシェント・スタティスティック
📖【書誌情報】
Gomez, M., & Gouin-Bonenfant, É. (2024). Wealth inequality in a low rate environment. Econometrica, 92(1), 201–246.