隣の芝生が青いと、危険な賭けに出てしまう私たち

私たちは、自らの幸福や満足度を、絶対的な基準で測っているわけではない。常に、周囲の誰かと自分を比較し、「あの人に比べて、自分は恵まれているか、いないか」という、相対的な立ち位置の中で、一喜一憂している。この、人間の根源的な性質である「社会的比較」は、私たちの感情だけでなく、経済的な意思決定、特に「リスクを伴う選択」に、どのような影響を与えているのだろうか。

もし、隣の芝生が青く見えるとき、私たちは、その差を埋めるために、より大きなリスクを取るようになるのだろうか。そして、その心理的なメカニズムは、ノーベル経済学賞を受賞した「プロスペクト理論」で説明できるのだろうか。

この根深く、複雑な課題に、私たちはどう向き合えばよいのだろうか。

なぜ、あなたの会社の「公平な」給与体系は、社員の不満を招くのか?

近年、従業員のエンゲージメント向上のため、多くの企業が、透明性の高い人事評価制度や、公平な報酬体系の構築に力を入れている。しかし、その「公平さ」が、意図せずして、従業員間の比較を助長し、かえって不満やリスクテイク行動を煽る可能性があることを、私たちは十分に認識しているだろうか。

例えば、あるIT企業では、全社員の給与テーブルが公開されている。この制度は、透明性を高め、従業員の納得感を醸成することを目的としていた。しかし、営業部門で働く佐藤さんは、この制度に複雑な感情を抱いていた。同期入社の田中くんが、自分よりも高い給与を得ていることを知ってから、佐藤さんの心は穏やかではない。

「彼にできて、私にできないはずがない」。佐藤は、田中くんに追いつき、追い越すために、これまで以上に野心的な目標を掲げ、成功確率の低い、ハイリスクな大型案件に、積極的に挑戦するようになった。彼女の行動は、会社にとっては歓迎すべきことかもしれない。しかし、その動機が、健全な成長意欲ではなく、「嫉妬」や「焦り」に根差しているとしたら、それは、いつか大きな失敗に繋がる危険性をはらんでいる。

このような課題が多くの組織で他人事ではないのは、人間が、自らの立ち位置を評価する際に、客観的な事実だけでなく、「社会的参照点(Social Reference Point)」、すなわち「比較対象となる他者の状態」を、極めて重要な判断基準として用いるからだ。この「社会的参照点」が、私たちのリスクに対する感じ方、すなわち「リスク選好」を、知らず知らずのうちに歪めてしまう。このメカニ-ズムを理解しない限り、私たちは、従業員のモチベーションを正しく設計することも、組織に潜むリスクを適切に管理することもできない。

複雑な課題を構造的に捉えるための「思考の道具」

佐藤さんが経験したような心理的な変化を、単なる個人の性格の問題として片付けるのではなく、構造的に分析するための思考の道具をいくつか紹介する。

「社会的参照点」という心の物差し
人々が自らの状況を評価する際に基準とする、他者の状態(所得、地位、所有物など)のこと。この参照点よりも自分が上にいるか、下にいるかによって、同じ出来事でも、私たちの心の受け止め方は大きく変わる。

「プロスペクト理論」で読み解くリスク行動
ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンらが提唱した、人間の意思決定に関する理論。この理論の核心は、人々が、絶対的な富の量ではなく、「参照点」からの変化(利得か損失か)に基づいて意思決定を行うこと、そして、「損失」を「利得」よりも強く嫌う(損失回避性)ことにある。

「社会的参照点」とプロスペクト理論の融合
もし、プロスペクト理論における「参照点」が、個人の現状(ステータス・クオ)だけでなく、「社会的参照点」によっても設定されるとしたら、どうなるだろうか。他者の所得が自分の参照点となり、それよりも自分の所得が低い状態が「損失」として認識されれば、その「損失」を取り戻すために、人々はより大きなリスクを取るようになるのではないか。

実験室が明らかにした、「嫉妬」と「賭け」の不都合な関係

この問いに対し、Frederik Schwerter (2024)が経営学のトップジャーナルであるManagement Scienceで発表した論文は、巧みに設計された実験室実験を通じて、この問題の核心に迫った。この研究は、被験者がリスクを伴う意思決定を行う際に、比較対象となる他者(ピア)の所得を意図的に操作することで、「社会的参照点」がリスクテイク行動に与える因果的な影響を、世界で初めて厳密に検証したものである。

この研究が私たちに見せてくれるのは、私たちの合理的な判断がいかに脆く、他者との比較という、抗いがたい社会的感情によって、いかに簡単に歪められてしまうかという、人間の不都合な真実だ。

1. 「隣人」が豊かだと、私たちはより「ギャンブラー」になる

実験で明らかになった最も重要な事実は、比較対象となるピアの所得が高い(社会的参照点が高い)状況に置かれた被験者は、ピアの所得が低い状況に置かれた被験者よりも、有意にリスクの高い選択(ハイリスク・ハイリターンなクジ)を行うということだ。

この発見が示唆するのは、私たちが、他者との間に「不利な格差」を感じたとき、その状況を「損失」と捉え、その損失を取り戻すために、より大きなリスクを取る傾向があるという、プロスペクト理論の予測と一致する心理メカニズムである。隣の芝生の青さは、私たちを冷静な投資家から、一発逆転を狙うギャンブラーへと変貌させてしまうのだ。

2. この効果は、単なる「情報」や「当てつけ」では説明できない

しかし、この結果は、本当に「社会的比較」によって引き起こされたのだろうか。単に、他者の高い所得という「情報」が、自分の目標設定に影響を与えた(アンカリング効果)だけではないのか。あるいは、実験者の意図を汲んで、期待されている行動を取った(実験者デマンド効果)だけではないのか。

研究チームは、これらの代替的な説明を排除するため、巧みな対照実験を行った。それは、比較対象が「他者」ではなく、「もし自分が別の選択をしていたら得られたであろう、架空の所得(反実仮想的情報)」である状況を作り出すというものだ。

その結果、驚くべきことに、この「非社会的な」状況では、参照点が高いか低いかによって、リスクテイク行動に有意な差は見られなかった。この事実は、私たちがリスクテイクを変化させるのは、単なる「情報」ではなく、それが「他者」との比較という、社会的な文脈の中に置かれたときであることを、明確に示している。

3. その行動の裏には、「損失を避けたい」という強い動機がある

さらに、この研究は、社会的参照点が高い状況でのリスクテイク行動が、プロスペクト理論のもう一つの重要な要素である「感応度逓減(Diminishing Sensitivity)」、すなわち、利得や損失が大きくなるにつれて、その追加的な一単位がもたらす心理的なインパクトが小さくなるという性質とも整合的であることを示している。

社会的参照点よりも自分が下にいるという「損失」の状態から抜け出すためには、たとえ成功確率が低くても、大きなリターンを狙う方が、心理的には魅力的になる。このメカニズムが、ハイリスクな選択を後押ししているのだ。

この「実験室の真実」は、現実の世界で何を意味するのか?

もちろん、どのような優れた研究も、それ一つで全てを語ることはできない。Schwerterの研究は、管理された実験室という特殊な環境で行われたものであり、この結果が、より複雑な現実の経済社会に、そのまま当てはまるかは慎重に考える必要がある。

また、この研究は、社会的比較が「リスクテイクを促す」という側面に焦点を当てているが、それが常に「良い」ことなのか、「悪い」ことなのかという価値判断を下しているわけではない。起業家精神のような、社会にとって有益なリスクテイクを促進する可能性もあれば、過剰な投機や、無謀な経営判断を招く危険性も、同時に存在する。

しかし、この研究が投げかける本質的な問いは、実験の限界を越えて、私たちに重くのしかかる。「私たちは、組織や社会の制度を設計する際に、人間が『社会的比較を行う生き物である』という、この抗いがたい事実を、どれだけ真剣に考慮しているだろうか」。この問いに、私たちは真剣に向き合う必要がある。

「公平な競争」という幻想を超えて

では、完璧な答えがないとわかった上で、私たちはこの複雑な問題とどう向き合えばよいのだろうか。

ここまでの話から見えてくるのは、人間の意思決定が、真空の中で行われる合理的な計算ではなく、常に他者との関係性という、湿度の高い社会的文脈の中に埋め込まれているという、揺るぎない事実だ。重要なのは、社会的比較という感情を、非合理的で克服すべき「弱さ」として切り捨てることではない。むしろ、その強力なエネルギーを、いかにして個人と組織の成長に繋がる、建設的な方向へと導くかという、新しいマネジメントの視点を持つことなのかもしれない。

最初のステップ:あなたの組織の「見えざる参照点」を可視化する

  • 私たちの組織では、どのような情報(給与、評価、昇進など)が、従業員の間で比較の対象となりやすいだろうか。

  • 業績評価や報酬決定のプロセスは、従業員に「公平な競争」を促しているだろうか。それとも、意図せずして、過剰な「嫉妬」や「無力感」を生み出してはいないだろうか。

  • チーム内で、他者との比較から生じるネガティブな感情(焦り、劣等感など)について、オープンに話し合うことができる、心理的に安全な環境はあるだろうか。

次のステップ:チームで「健全な競争」をデザインする

個人の内省から得た気づきは、チームの対話を通じて初めて、組織の力へと昇華する。以下の論点を、次の人事制度改定の議論のテーブルに乗せてみてはどうだろうか。

  • 参照点の多様化: 評価の物差しを、単一のランキングや序列から、より多角的で、個人の成長に焦点を当てたものへとシフトさせることはできないだろうか。他者との比較(相対評価)だけでなく、過去の自分との比較(絶対評価)の比重を高めることは、健全な競争を促す上で有効かもしれない。

  • 「情報開示」の戦略的設計: 何を公開し、何を非公開にするか。情報の透明性は、公平性を担保する上で重要だが、同時に、過剰な比較を煽るリスクも伴う。給与のような直接的な比較対象となりやすい情報の代わりに、個々の従業員の「貢献の物語」や「成功のプロセス」といった、より質的な情報を共有することは、相互のリスペクトと学習を促す上で、より建設的ではないだろうか。

  • 「協力」が生む新たな参照点: 個人の競争だけでなく、チームとしての目標達成をより重視するインセンティブ設計は、従業員の意識を「ゼロサムゲーム」から「プラスサムゲーム」へと転換させる上で、強力な武器となりうる。チームの成功という「共通の参照点」を持つことで、個人の嫉妬は、チームへの貢献意欲へと昇華されるかもしれない。

#️⃣【タグ】
社会的比較, プロスペクト理論, 参照点依存性, リスクテイキング, 実験経済学

📖【書誌情報】
Schwerter, F. (2024). Social reference points and risk taking. Management Science, 70(1), 616–632.