「敵を知り、己を知れば、百戦殆うからず」。孫子のこの言葉は、現代のビジネス戦略においても、金科玉条とされてきた。競合他社の価格、品質、戦略――。これらの情報を正確に把握し、自社のポジショニングを最適化することこそが、競争を勝ち抜くための第一歩であると、私たちは信じている。
しかし、もし、多くの企業が、この「第一歩」さえ、踏み出せていないとしたら?もし、インターネットで数分もあれば手に入るはずの、すぐ隣の競合店の価格さえ、多くの経営者が「知らない」、あるいは「知っているつもり」になっているとしたら、私たちの戦略論は、あまりにも砂上の楼閣に過ぎないのではないか。
この根深く、複雑な課題に、私たちはどう向き合えばよいのだろうか。
なぜ、あなたの会社の「競合調査」は、もはや機能しないのか?
近年、多くの企業が、データ分析ツールを導入し、市場や競合の動向をリアルタイムで把握しようと努めている。例えば、小売業界では、AIを活用して競合店の価格変動を自動で追跡し、自社の価格戦略に反映させる「ダイナミック・プライシング」が広がりつつある。
しかし、こうしたテクノロジーの導入は、本当に組織の意思決定の質を高めているのだろうか。むしろ、データの洪水の中で、経営者が本当に重要な情報を見失う「情報過多」という新たな問題を生み出してはいないだろうか。
パーソナルケア業界で、ネイルサロンを経営する佐藤さんも、この問題に直面していた。彼女の店が位置するエリアは、競合店がひしめく激戦区だ。佐藤は、これまで、自らの経験と勘を頼りに、価格設定やサービスの品質を決めてきた。最近、コンサルタントから、「もっとデータを活用すべきだ」と、競合店の価格や顧客レビューを分析するための、高価なツールを勧められた。
「競合の価格なんて、ネットで見ればすぐにわかる。そんなものに、高いお金を払う意味があるのだろうか」。佐藤は、そう考えていた。彼女は、自分の店の周りの競合については、十分に「知っているつもり」だったのだ。
このような課題が多くの企業、特に中小企業で他人事ではないのは、経営者が、自らの「認知の限界」と「注意力の有限性」に、無自覚であるからだ。情報は、ただそこに「存在する」だけでは、意思決定には活かされない。経営者が、その情報に「注意」を向け、その価値を「認識」し、そして、それに基づいて「行動」を起こして初めて、情報は「価値」へと転換される。この、人間的な情報処理プロセスのボトルネックを見過ごすとき、どんなにアクセスしやすいデータも、宝の持ち腐れとなってしまう。
複雑な課題を構造的に捉えるための「思考の道具」
佐藤さんが陥っていたような「知っているつもり」という罠を、単なる個人の怠慢の問題として片付けるのではなく、構造的に分析するための思考の道具をいくつか紹介する。
「経営者の不注意」という名の認知バイアス
人間は、常にすべての情報を平等に処理できるわけではない。自らの経験や信念に合致する情報にばかり注意を向け、そうでない情報を無視してしまう傾向がある。この「経営者の不注意(Managerial Inattention)」は、たとえ容易に入手可能な情報であっても、競合の重要な動きを見過ごす原因となる。
「情報の価値」の過小評価
経営者は、一度、競合の状況を把握すると、その情報が陳腐化している可能性を忘れ、自らの知識を過信しがちである。「昔調べたから知っている」という思い込みが、新しい情報を収集するインセンティブを削ぎ、結果として、市場の変化から取り残されてしまう。
「模倣」か「差別化」か
競合の情報を得た企業は、どのような戦略的反応を示すだろうか。一つの可能性は、競合との違いを際立たせる「差別化(Differentiation)」戦略である。もう一つの可能性は、競合の成功している戦略を真似る「模倣(Alignment)」戦略である。どちらの戦略が選択されるかは、その市場の特性や、企業の置かれた状況によって異なる。
3,218社の「無知」が明らかにした、戦略論の不都合な真実
この問いに対し、Hyunjin Kim (2025)が経営学のトップジャーナルであるManagement Scienceで発表した論文は、米国のパーソナルケア業界に属する3,218社のネイルサロンを対象とした、大規模なフィールド実験を通じて、この問題の核心に迫った。この研究は、店舗をランダムに2つのグループに分け、一方のグループ(実験群)にのみ、近隣の競合店の価格情報を、訪問調査員を通じて直接提供するという、極めて独創的な介入を行った。
この研究が私たちに見せてくれるのは、多くの企業が、驚くほど自社の競争環境について「無知」であるという衝撃的な事実と、その「無知」が解消されたとき、彼らがどのような行動を取るのかという、示唆に富む光景だ。
1. 企業の半分近くは、競合の価格を知らなかった
まず、研究が明らかにした最も驚くべき事実は、実験介入の前に調査したところ、実験群の企業の実に半分近くが、近隣の競合店の価格を、正確に把握していなかったということだ。
この「無知」は、情報へのアクセスが困難だからではない。多くの経営者は、「調べようと思えば、いつでも調べられる」と答えている。にもかかわらず、彼らは、その情報を積極的に収集しようとはしていなかった。これは、彼らが、競合の価格情報を、自社の意思決定にとって、それほど重要ではないと「過小評価」していたか、あるいは、単に日々の業務に追われ、そこまで「注意」が回らなかったことを示唆している。
2. 情報を得た企業は、「差別化」ではなく「模倣」に走った
では、これまで知らなかった競合の価格情報を与えられた企業は、どのような行動を取ったのだろうか。伝統的な戦略論が予測するように、彼らは、競合との違いを際立たせる「差別化」に走ったのだろうか。
答えは、ノーである。むしろ、彼らは、自社の価格を、競合の価格に「寄せていく」という、「模倣」あるいは「同質化」の行動を取った。競合よりも価格が高すぎた企業は価格を下げ、安すぎた企業は価格を上げたのだ。
この発見は、多くの経営者が、内心では、自社の価格設定に自信を持っておらず、競合の価格を、市場の「適正価格」を示す、重要なアンカーとして認識していることを、浮き彫りにする。
3. そして、その「模倣」は、業績を向上させた
さらに興味深いのは、この「模倣」という行動が、企業の業績を実際に向上させたという事実だ。競合の価格情報を得て、自社の価格を調整した企業は、対照群と比較して、従業員数や顧客数が有意に増加し、オンラインでの注目度(電話の問い合わせ件数や、地図の閲覧数など)も高まった。
これは、多くの企業が、当初は、市場の実勢から乖離した「不適切な」価格設定を行っており、競合情報が、それを修正するための、貴重なシグナルとして機能したことを示唆している。特に、自社のサービスの質に比べて、価格を高く設定しすぎていた企業(「割高」な企業)ほど、価格修正による業績改善効果は大きかった。
この「無知の勝利」は、何を意味するのか?
もちろん、どのような優れた研究も、それ一つで全てを語ることはできない。Kimの研究は、ネイルサロンという、比較的価格競争が激しく、製品・サービスの差別化が難しい、特定の業界を対象としている。この結果が、より複雑な戦略的選択肢を持つ、他の業界に、そのまま当てはまるかは慎重に考える必要がある。
また、この研究は、競合情報が「模倣」を促し、短期的には業績を向上させることを示したが、長期的には、市場全体の同質化を招き、価格競争を激化させ、業界全体の収益性を損なうリスクについては、十分に検証されていない。
しかし、この研究が投げかける本質的な問いは、業界の特殊性を越えて、私たちに重くのしかかる。「私たちは、自社の意思決定において、本当に必要な情報に、十分に『注意』を払えているだろうか。そして、データが容易に入手できるようになった現代において、『差別化』という戦略の理想は、むしろ『模倣』という、より安易な現実へと、収斂していく運命にあるのだろうか」。この問いに、私たちは真剣に向き合う必要がある。
「知っているつもり」の罠から、どう抜け出すか
では、完璧な答えがないとわかった上で、私たちはこの複雑な問題とどう向き合えばよいのだろうか。
ここまでの話から見えてくるのは、現代の戦略的意思決定のボトルネックが、もはや「情報の不足」ではなく、むしろ「注意力の不足」と「認知バイアス」にあるという、揺るぎない事実だ。重要なのは、より多くのデータを集めることではない。溢れる情報の中から、本当に価値のあるシグナルを見つけ出し、それを自社の行動へと結びつけるための、組織的な「注意力」を、いかにして設計するかという、新しい視点を持つことなのかもしれない。
最初のステップ:あなたの会社の「注意力の死角」を発見する
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私たちの会社では、競合の動向について、最後に体系的な調査を行ったのは、いつだろうか。その情報は、今もなお、有効だろうか。
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経営会議で議論される「競合」のリストは、本当に市場の実態を反映しているだろうか。それとも、過去の成功体験に基づいた、固定的な「思い込み」に囚われてはいないだろうか。
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現場の従業員が、日々の業務の中で得た、競合に関する「生の情報」は、経営層の意思決定に、十分に吸い上げられているだろうか。
次のステップ:チームで「組織的な注意力」を設計する
個人の内省から得た気づきは、チームの対話を通じて初めて、組織の力へと昇華する。以下の論点を、次の戦略会議のテーブルに乗せてみてはどうだろうか。
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「無知の知」を促す仕組み: 定期的に、チームメンバーに「競合について、私たちが『知らない』ことは何か?」と問いかける場を設けることはできないだろうか。追跡調査の実験が示したように、自らの「無知」を自覚することこそが、新しい情報を求める第一歩となる。
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「情報の価値」の再評価: 競合情報の収集と分析を、単なる「コスト」としてではなく、業績向上に直結する「投資」として、明確に位置づけることはできないか。そのための予算と、専任の担当者を、確保すべきではないか。
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「模倣」の先にある「差別化」を問う: 競合の情報を得た上で、それでもなお、私たちは「模倣」ではなく「差別化」の道を選ぶのか。もし選ぶのであれば、その差別化の源泉は、価格以外の、どこにあるのか。競合データは、安易な模倣への誘惑であると同時に、自社の独自の価値を問い直すための、最高の「鏡」となりうる。
#️⃣【タグ】
競争戦略, 意思決定, 競合分析, フィールド実験, 経営者の注意力
📖【書誌情報】
Kim, H. (2025). The value of competitor information: Evidence from a field experiment. Management Science, 71(4), 3600–3621.