「Go Postal(郵便局員のようにキレる)」。この言葉は、1990年代に米国郵便公社(USPS)で相次いだ銃撃事件をきっかけに生まれた、過度のストレスが攻撃的な行動を引き起こす様を指すスラングである。この言葉が今なお使われ続けているという事実は、職場におけるストレスが、いかに深刻な問題であるかを物語っている。
しかし、そのストレスの中でも、特に「経済的なストレス」――すなわち、給料日前の金銭的な逼迫感が、ハラスメントや差別といった、より陰湿で、しかしより普遍的な問題に、どのような影響を与えているのだろうか。もし、私たちのポケットの中身の寂しさが、他者への寛容さを失わせ、攻撃性を増幅させているとしたら?
この根深く、複雑な課題に、私たちはどう向き合えばよいのだろうか。
なぜ、あなたの会社の「給料日」は、職場の「平和」を左右するのか?
近年、日本でも、従業員のウェルビーイング向上の一環として、メンタルヘルス対策や、ストレスチェックの義務化が進められている。しかし、その議論の中で、「経済的なストレス」という、極めて根源的な要因が、十分な注目を集めているとは言いがたい。
例えば、多くの企業では、給与の支払いは月に一度、決まった日に行われる。この「月給制」という、当たり前のように受け入れられている制度が、意図せずして、従業員の心に周期的なストレスの波を生み出し、職場の人間関係に影を落としている可能性を、私たちは考えたことがあるだろうか。
あるコールセンターで働く佐藤さんも、この「給料日前のギスギスした空気」を、毎月のように感じていた。給料日が近づくにつれて、同僚たちの口調は荒くなり、顧客からの些細なクレームにも、過剰に反応するようになる。普段は温厚な上司でさえ、この時期になると、部下に対して不寛容になり、些細なミスを厳しく叱責する。
「みんな、お金に余裕がなくて、イライラしているんだ」。佐藤は、そう感じていた。しかし、その「イライラ」が、単なる個人の感情の問題ではなく、職場のハラスメントや差別の温床となっているとしたら、それは、もはや個人の問題では済まされない、組織全体で取り組むべき課題ではないだろうか。
このような課題が多くの企業で他人事ではないのは、経済的な不安が、人間の認知能力や自制心を低下させ、他者への攻撃性を高めるという、心理学的なメカニズムが、普遍的に存在するからだ。私たちは、自覚している以上に、「財布の中身」に、自らの感情や行動を支配されている。この不都合な真実を直視しない限り、私たちは、職場のハラスメント問題の、根本的な原因にたどり着くことはできない。
複雑な課題を構造的に捉えるための「思考の道具」
佐藤さんが感じていたような職場の空気の変化を、単なる気のせいとして片付けるのではなく、構造的に分析するための思考の道具をいくつか紹介する。
「希少性」がもたらす認知のトンネル
お金や時間といった資源が欠乏している状態、すなわち「希少性(Scarcity)」は、私たちの注意を、目先の緊急な課題にばかり向けさせ、長期的な視点や、他者への配慮といった、より高度な認知機能を低下させることが知られている。この「トンネリング効果」が、経済的なストレス下での、衝動的で攻撃的な行動を説明する鍵となる。
「自己制御」という有限な資源
私たちの自制心や、感情をコントロールする能力、すなわち「自己制御(Self-regulation)」は、筋肉のように、使うと疲弊する有限な資源であると考えられている。経済的なストレスは、この貴重な資源を絶えず消耗させ、結果として、ハラスメントや差別といった、社会的に望ましくない行動への「歯止め」を、効きにくくしてしまう。
「給与サイクル」という自然実験
従業員の経済的ストレスは、給料日を境に、周期的に変動する。給料日直後は、経済的な余裕からストレスが低く、給料日が近づくにつれて、ストレスが高まる。この「給与サイクル」を、一種の「自然実験」として利用することで、他の要因を統制しながら、経済的ストレスが、職場の行動に与える因果的な影響を、明らかにすることができる。
80万件の「魂の叫び」が、語り始めた真実
この問いに対し、Ayushi Narayan (2024)が経営学のトップジャーナルであるManagement Scienceで発表した論文は、まさに「Go Postal」という言葉を生んだ米国郵便公社(USPS)を舞台に、この問題の核心に迫った。この研究は、2004年から2019年にかけて、USPSの従業員によって申し立てられた、80万件以上もの「雇用機会均等(EEO)」に関する苦情データを分析し、その発生タイミングが、2週間に一度の「給与サイクル」と、どのように連動しているかを、統計的に検証したものである。
この研究が私たちに見せてくれるのは、給料日前の「経済的な渇き」が、いかにして人々の心の余裕を奪い、ハラスメントや差別という形で、他者への攻撃性として噴出するかという、生々しくも、しかし目を背けてはならない、職場の現実だ。
1. 給料日前の週は、ハラスメント・差別が「5%」増加する
研究が明らかにした最も重要な事実は、給与が支払われる週(給与サイクルの第1週)と比較して、その翌週(第2週)、すなわち、多くの従業員が経済的な逼迫を感じ始める週に、ハラスメントや差別の発生件数が、統計的に有意に、約5%も増加するということだ。
この発見は、職場の人間関係のトラブルが、単なる個人の性格や、相性の問題だけでなく、従業員が置かれた「経済的な状況」によって、大きく左右されることを、強力に示唆している。
2. この増加は、「報告」のタイミングではなく、「発生」のタイミングで起きている
しかし、この結果は、本当にハラスメントの「発生件数」の増加を反映しているのだろうか。もしかしたら、給料日前にストレスを感じた従業員が、普段なら見過ごすような些細な出来事を、「報告」しやすくなるだけではないのか。
この代替的な説明を排除するため、研究は、苦情が「報告された日」ではなく、「発生した日」のデータを用いて、分析を行った。その結果、給与サイクルとの明確な連動が見られたのは、「発生日」のデータのみであり、「報告日」のデータには、そのようなパターンは見られなかった。
さらに、比較的軽微で、内々に処理されやすい「非公式な」苦情と、より深刻で、正式な調査へと発展する「公式な」苦情の両方で、同様の増加が見られた。もし、報告行動の変化だけが原因であれば、影響は、より「境界線上」にある、非公式な苦情に集中するはずだ。
これらの事実は、給料日前のストレスが、単に人々の「感じ方」を変えるだけでなく、実際に、ハラスメントや差別といった「行動」を、引き起こしている可能性を、強く示唆している。
この「米国の郵便局の物語」は、対岸の火事ではない
もちろん、どのような優れた研究も、それ一つで全てを語ることはできない。Narayanの研究は、米国郵便公社という、準公的な、そして労働組合の力が強い、特殊な組織を対象としている。この結果が、より競争の激しい、民間の企業に、そのまま当てはまるかは慎重に考える必要がある。
また、この研究は、経済的ストレスとハラスメントとの「相関関係」を明らかにしたが、その背後にある、より詳細な心理的なメカニズム(例えば、ストレスが、具体的にどのような認知の変化を通じて、攻撃的な行動に繋がるのか)については、さらなる探求が必要だろう。
しかし、この研究が投げかける本質的な問いは、組織の特殊性や、文化の違いを越えて、私たちに重くのしかかる。「私たちは、従業員の『経済的な幸福』を、単なる福利厚生の問題としてではなく、職場の倫理や、人間関係の健全性を左右する、経営の根幹に関わる問題として、捉えられているだろうか」。この問いに、私たちは真剣に向き合う必要がある。
「心の余裕」を、どう設計するか
では、完璧な答えがないとわかった上で、私たちはこの複雑な問題とどう向き合えばよいのだろうか。
ここまでの話から見えてくるのは、職場のハラスメント対策が、もはや、コンプライアンス研修や、相談窓口の設置といった、「対症療法」だけでは不十分であるという、揺るぎない事実だ。重要なのは、問題が起きてから対処することではない。問題の発生を未然に防ぐため、従業員が、経済的なストレスに過度に晒されることのないような、「予防的な」環境を、いかにして設計するかという、新しい視点を持つことなのかもしれない。
最初のステップ:あなたの会社の「隠れたストレスサイクル」を発見する
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私たちの会社の給与支払日や、ボーナスの支給月、あるいは、繁忙期のタイミングは、従業員の経済的・精神的なストレスに、どのような周期的な影響を与えているだろうか。
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職場の人間関係のトラブルや、顧客からのクレームが増加する時期に、何か特定のパターンは見られないだろうか。
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私たちは、従業員が、個人的な経済問題について、安心して相談できるような、心理的なセーフティネットを提供できているだろうか。
次のステップ:チームで「ストレスを平準化する」制度を設計する
個人の内省から得た気づきは、チームの対話を通じて初めて、組織の力へと昇華する。以下の論点を、次の人事制度改定の議論のテーブルに乗せてみてはどうだろうか。
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給与支払頻度の見直し: 伝統的な「月給制」に固執する必要はあるだろうか。例えば、「週給制」や「隔週払い」を導入することは、従業員のキャッシュフローを安定させ、給料日前の極端なストレスを緩和する上で、有効な手段となりうるか。
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「前払い制度」の導入: 従業員が、緊急の資金需要に直面した際に、給与の一部を前払いで受け取れる制度を導入することは、高金利の消費者金融への依存を防ぎ、経済的な安心感を提供する上で、効果的ではないだろうか。
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ファイナンシャル・リテラシー教育の提供: 従業員が、自らの家計を健全に管理し、将来に向けた資産形成を行うための、実践的な金融教育の機会を提供することは、企業の新たな責務となりうるのではないか。
#️⃣【タグ】
ハラスメント, 差別, 経済的ストレス, 行動経済学, 組織行動
📖【書誌情報】
Narayan, A. (2024). The impact of financial stress on workplace harassment and discrimination. Management Science, 70(4), 2447–2458.