「倫理的なリーダーシップ」――。それは、公正さ、誠実さ、そして部下への配慮といった、誰もが理想とするリーダーの姿である。このようなリーダーの下で働く従業員は、安心して仕事に打ち込み、高いパフォーマンスを発揮する。これは、経営学の世界で、長らく信じられてきた「常識」だった。
しかし、もしその「正しさ」が、意図せずして、従業員を過剰な責任感と、燃え尽きの淵へと追い込んでいるとしたら?もし、倫理的なリーダーが育む「当事者意識」が、皮肉にも、従業員の心身を蝕む「見えざるストレス」の源泉となっているとしたら、私たちは、リーダーシップのあり方を、根本から見直す必要があるのではないか。
この根深く、複雑な課題に、私たちはどう向き合えばよいのだろうか。
なぜ、あなたの会社の「働きがい」は、社員の「休みがい」を奪うのか?
近年、多くの企業が、従業員のエンゲージメント向上を目的として、「心理的オーナーシップ」、すなわち「この仕事は、自分のものだ」という当事者意識を育むための施策に力を入れている。例えば、従業員に大きな裁量権を与え、意思決定プロセスに積極的に関与させる、といった取り組みはその一例だ。
しかし、こうした「働きがい」の追求は、常にポジティブな結果だけをもたらすとは限らない。むしろ、新たな問題を生み出す可能性はないだろうか。
ホスピタリティ業界で働く佐藤さんも、この問題に直面していた。彼女の上司である田中さんは、部下一人ひとりの意見に真摯に耳を傾け、公正な評価を下す、誰もが尊敬する「倫理的なリーダー」だ。田中さんの下で働くことに、佐藤は大きな誇りとやりがいを感じていた。
「このチームのためなら、どんな困難も乗り越えられる」。佐藤は、自らの仕事に強い「心理的オーナーシップ」を感じ、部署の目標達成のために、連日遅くまで身を粉にして働いた。その結果、チームは素晴らしい成果を上げた。しかし、その代償は、大きかった。プロジェクトが終わる頃には、佐藤の心身は、燃え尽き寸前だったのだ。
「なぜ、これほどまでにやりがいのある仕事をしているのに、私の心は休まらないのだろうか」。佐藤は、自らの心に生じた、この矛盾した感情に、戸惑っていた。
このような課題が多くの組織で他人事ではないのは、私たちが「心理的オーナーシップ」という概念を、手放しで賞賛しすぎているからだ。確かに、当事者意識は、従業員のモチベーションとパフォーマンスを高める強力なエンジンとなりうる。しかし、それは同時に、従業員に過剰な責任感とプレッシャーを与え、仕事とプライベートの境界線を曖昧にし、心身の健康を蝕む「諸刃の剣」でもある。このリスクに無自覚なまま、「働きがい」だけを追求することは、従業員を、善意の名の下に、静かに搾取することに繋がりかねない。
複雑な課題を構造的に捉えるための「思考の道具」
佐藤さんが経験したような燃え尽きを、単なる個人のキャパシティの問題として片付けるのではなく、構造的に分析するための思考の道具をいくつか紹介する。
「倫理的リーダーシップ」という土壌
リーダーが、公正さ、誠実さ、そして部下への配慮といった、倫理的な行動を示すこと。これは、部下が安心してリスクを取り、新しいことに挑戦できる、心理的に安全な「土壌」を育む。
「心理的オーナーシップ」と「創造性自己効力感」という二つの果実
倫理的なリーダーシップという土壌からは、二つの重要な心理的な「果実」が実る。一つは、「この仕事は自分のものだ」と感じる「心理的オーナーシップ(Psychological Ownership)」。もう一つは、「自分なら創造的な成果を生み出せる」という自信、すなわち「創造性自己効力感(Creative Self-Efficacy)」である。これら二つの感情が、従業員の「サービス革新行動(Service Innovation Behavior)」、すなわち、より良いサービスを生み出そうとする自発的な行動を、直接的に駆動する。
「睡眠の質」という見えざる資源
しかし、これらのポジティブなメカニズムが円滑に機能するためには、従業員が、十分な「心理的資源」を回復するための、見えざる土台が必要となる。その最も基本的なものが、「睡眠の質(Sleep Quality)」である。睡眠不足は、自己制御能力や認知機能を低下させ、せっかく育まれた創造性自己効力感が、実際の行動へと結びつくのを妨げてしまう。
良い上司と、眠れない部下
この問いに対し、Rasheedらの研究チームが、組織心理学のトップジャーナルであるHuman Relationsで2023年に発表した論文は、米国のホスピタリティ業界で働く従業員を対象とした、2つの大規模な時差調査研究を通じて、この問題の核心に迫った。
この研究が私たちに見せてくれるのは、倫理的なリーダーシップが、従業員の「心理的オーナーシップ」と「創造性自己効力感」という、二つの異なる経路を通じて、彼らの革新的な行動を引き出す一方で、そのポジティブな効果が、「睡眠の質」という、見過ごされがちな要因によって、いかに脆くも損なわれてしまうかという、組織のデリケートな現実だ。
1. 倫理的なリーダーは、部下の「当事者意識」と「自信」を育む
まず、研究が明らかにしたのは、倫理的なリーダーの下で働く従業員は、「この仕事は自分のものだ」という強い当事者意識(心理的オーナーシップ)と、「自分ならできる」という自信(創造性自己効力感)を、より高く持つ傾向があるということだ。
これは、倫理的なリーダーが、公正で透明性の高い環境を提供することで、従業員が直面する「不確実性」を低減し、彼らが安心して仕事に没頭できる心理的な土壌を育んでいることを示唆している。
2. 「当事者意識」と「自信」は、革新的な行動の源泉となる
そして、この二つの心理的な状態は、従業員の「サービス革新行動」――すなわち、既存のサービスを改善したり、新しいサービスを提案したりする、自発的で創造的な行動――を、強力に促進することがわかった。
自分の仕事に誇りを持ち、自らの能力に自信を持つ従業員は、現状維持に甘んじることなく、より良いものを目指して、積極的にリスクを取るようになる。これは、倫理的なリーダーシップが、いかにして組織のイノベーションの源泉となりうるかを、明確に示している。
3. しかし、「睡眠不足」が、そのポジティブな連鎖を断ち切る
しかし、物語はここで終わらない。この研究の最も重要な発見は、このポジティブなメカニズムが、「睡眠の質」という、極めて個人的で、しかし組織が見過ごすことのできない要因によって、大きく左右されるということだ。
分析の結果、従業員の睡眠の質が低い場合、「創造性自己効力感」が「サービス革新行動」へと結びつく効果が、有意に弱まることが明らかになった。つまり、いくら「自分ならできる」という自信を持っていても、睡眠不足で心身が疲弊していれば、それを実際の行動に移すためのエネルギーが、枯渇してしまうのだ。
この「睡眠という不都合な真実」は、何を意味するのか?
もちろん、どのような優れた研究も、それ一つで全てを語ることはできない。Rasheedらの研究は、主にホスピタリティ業界という、シフト勤務が多く、特に睡眠の問題が深刻化しやすい、特殊な環境を対象としている。この結果が、他の業界に、そのまま当てはまるかは慎重に考える必要がある。
また、この研究は、睡眠の質が「創造性自己効力感」の経路を阻害することを示したが、「心理的オーナーシップ」の経路には、有意な影響を与えなかった。これは、当事者意識に基づく行動が、より強い内発的動機付けに根差しており、多少の睡眠不足では揺らがないことを示唆しているのかもしれない。
しかし、この研究が投げかける本質的な問いは、業界の特殊性や、メカニズムの詳細を越えて、私たちに重くのしかかる。「私たちは、従業員のパフォーマンスを議論する際に、彼らの『プライベートな時間』、特に『睡眠』という、最も基本的な生命活動の質に、どれだけ注意を払っているだろうか」。この問いに、私たちは真剣に向き合う必要がある。
「働きがい」の前に、「休みがい」を
では、完璧な答えがないとわかった上で、私たちはこの複雑な問題とどう向き合えばよいのだろうか。
ここまでの話から見えてくるのは、従業員のエンゲージメントとイノベーションを真に引き出すためには、もはや「職場環境の改善」という、日中の活動だけでは不十分であるという、揺るぎない事実だ。重要なのは、従業員が、仕事から離れ、心身を十分に回復させるための「質の高い休息」を、確保できるような環境を、組織として、いかに積極的に支援するかという、新しい視点を持つことなのかもしれない。
最初のステップ:あなたの組織の「見えざる睡眠負債」を可視化する
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私たちの組織では、従業員の長時間労働や、不規則なシフト勤務が、常態化してはいないだろうか。
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従業員の健康診断やストレスチェックの結果に、睡眠に関連する問題の兆候は見られないだろうか。
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私たちは、従業員の「睡眠」を、個人の健康管理の問題として片付けるのではなく、組織全体の生産性に関わる、経営課題として認識しているだろうか。
次のステップ:チームで「最高の休息」をデザインする
個人の内省から得た気づきは、チームの対話を通じて初めて、組織の力へと昇華する。以下の論点を、次のウェルビーイング施策の検討会議のテーブルに乗せてみてはどうだろうか。
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勤務制度の柔軟化: 従業員が、自らの生活リズムに合わせて、より柔軟に勤務時間を設定できるような制度(フレックスタイム、裁量労働制など)を、導入・拡充できないだろうか。
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「繋がらない権利」の保障: 勤務時間外や休日に、上司や同僚からの連絡に対応する義務がないことを、明確なルールとして定め、従業員が、仕事から完全に解放される時間を、保障できないだろうか。
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睡眠リテラシーの向上: 睡眠の重要性や、その質を高めるための具体的な方法について、専門家を招いたセミナーや、情報提供を通じて、従業員の「睡眠リテラシー」を高めることはできないか。
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リーダー自身の変革: 何よりも重要なのは、リーダー自身が、率先して「休む」ことの重要性を示し、長時間労働を美徳とするような、古い価値観から、組織を解放することではないだろうか。
#️⃣【タグ】
倫理的リーダーシップ, サービスイノベーション, 心理的オーナーシップ, 睡眠の質, 燃え尽き症候群
📖【書誌情報】
Rasheed, M. I., Hameed, Z., Kaur, P., & Dhir, A. (2024). Too sleepy to be innovative? Ethical leadership and employee service innovation behavior: A dual-path model moderated by sleep quality. Human Relations, 77(6), 1-35.