AIは、エース社員ではなく新人を最強にする

あらゆる組織は、常に一つの問いと向き合っている。それは、一握りの「ハイパフォーマー」と、大多数の「平均的なパフォーマー」との間に存在する、埋めがたい生産性の差をどう乗り越えるか、という問いだ。私たちはこれまで、その答えをOJTや研修、メンター制度といった、時間とコストのかかる「スキルの伝承」に求めてきた。しかし、エース社員の暗黙知は容易には言語化できず、新人は試行錯誤の中で疲弊し、組織を去っていく。

この、あまりにも非効率で、属人的な「スキルの伝承」というゲームのルールを、根底から覆すプレイヤーが登場したとしたらどうだろうか。もし、テクノロジーが、エース社員の頭の中に眠る「勝ちパターン」を抽出し、すべての従業員がアクセスできる「集合知」へと変換できるとしたら。

生成AIの登場は、まさにその可能性を現実のものとしつつある。この根深く、複雑な課題に、私たちはどう向き合えばよいのだろうか。

なぜ、あなたのチームの「OJT」は、もはや機能しないのか?

近年、日本の多くの企業が、人手不足と顧客対応の品質維持という二重の課題に直面し、コールセンター業務へのAI導入を加速させている。例えば、ソフトバンクは、生成AIを活用してオペレーターの応対を支援し、顧客満足度の向上と業務効率化を両立させる取り組みを進めていると報じられた。これは、AIが単なるコスト削減ツールではなく、従業員のパフォーマンスを向上させる「パートナー」となりうることを示唆している。

この潮流は、最先端のテクノロジー企業だけの話ではない。中堅ソフトウェア企業でカスタマーサポート部門を率いる佐藤マネージャーもまた、この現実の渦中にいた。彼女のチームでは、ベテラン社員の鈴木さんは顧客から絶大な信頼を得ているが、入社3ヶ月目の新人、高橋さんはまだ顧客を怒らせてしまうことも少なくない。佐藤は毎週、高橋さんの応対記録を確認し、鈴木さんのやり方を参考にしながらフィードバックを行うが、改善のペースは遅々として進まない。「鈴木さんのような対応は、センスと経験の賜物。マニュアル化できるものではない」。そう諦めかけていた矢先、会社は対話支援AIツールの導入を決定した。佐藤は期待と不安を胸に、その効果を見守ることになる。

佐藤マネージャーが抱える悩みは、多くの組織に共通する構造的な課題である。それは、個人の「暗黙知」に依存したスキル伝承システムの限界だ。ベテランの経験や勘といった言語化しにくいノウハウは、従来のOJTや研修では効率的に移転できず、結果として組織全体の生産性のばらつきと、新人の早期離職を招いてしまう。この構造的なボトルネックこそが、多くの日本企業が直面する成長の壁となっているのだ。

複雑な課題を構造的に捉えるための「思考の道具」

佐藤マネージャーが直面したようなジレンマを、精神論で終わらせず、構造的に分析するための思考の道具をいくつか紹介する。

テクノロジーがもたらす「スキルの格差」
歴史的に、新しいテクノロジーの導入は、労働者のスキルによって異なる影響を与えてきた。例えば、コンピュータやソフトウェアの普及は、それらを使いこなせる高度な専門知識を持つ労働者の生産性を飛躍的に向上させる一方で、定型的な事務作業に従事する労働者の需要を減少させた。このような現象は、経済学では『スキル偏向型技術進歩(Skill-Biased Technical Change)』と呼ばれており、テクノロジーがスキル格差を拡大させる一因となってきたことを示している。

AIによる「暗黙知の形式知化」
しかし、生成AIは、これまでのテクノロジーとは異なる可能性を秘めている。AIは、熟練者の膨大な業務データ(例えば、顧客との対話ログ)から、本人さえ意識していない成功パターンや思考プロセス、すなわち「暗黙知」を学習し、それを誰もが利用可能な「形式知」として提示することができる。これは、従来のスキル偏向型技術進歩の流れを逆転させ、むしろスキル格差を「圧縮」する力となりうる。

5,172人のデータが証明した、AIによる「スキルの民主化」

この問いに対し、スタンフォード大学のErik Brynjolfsson教授らが経済学のトップジャーナルであるThe Quarterly Journal of Economicsで2025年に発表した研究は、衝撃的とも言える実証データを提供している。この研究は、あるフォーチュン500企業に所属する5,172人の顧客サポート担当者を対象に、生成AIベースの対話支援ツールが段階的に導入された際の、実際の業務データを分析したものである。

この研究が私たちに見せてくれるのは、AIが単に業務を効率化するだけでなく、組織内の「スキルの分布」そのものを劇的に変化させるという、驚くべき光景だ。

発見1:AIは、従業員の生産性を平均15%向上させた

まず、AI支援ツールを導入した従業員は、1時間あたりに解決できる顧客の問題件数が、導入前に比べて平均で15%増加した。これは、個々の問い合わせへの対応時間が短縮されたこと、そして複数の問い合わせを同時に処理する能力が向上したことによるものである。

この発見が示唆するのは、生成AIが実験室レベルのタスクだけでなく、実際の複雑な業務環境においても、測定可能な生産性向上をもたらすという、力強い事実である。

発見2:最大の恩恵を受けたのは「低スキル・未経験」の従業員だった

しかし、この研究の最も重要な発見は、その効果が従業員の間で著しく異なっていたことだ。生産性の向上幅が最も大きかったのは、AI導入前のスキルが低かった従業員や、経験の浅い従業員であった。彼らの生産性は、実に30%以上も向上した。一方で、もともとスキルが高く経験豊富な従業員の生産性には、ほとんど変化が見られなかった。

これは、AIがエース社員の「暗黙知」や「ベストプラクティス」を学習し、それを新人や経験の浅い従業員にリアルタイムで提供する「超有能なコーチ」として機能したことを意味する。AIは、トップパフォーマーをさらに強化するのではなく、全体の底上げを図り、スキル格差を圧縮する「スキルの民主化」とも呼べる現象を引き起こしたのだ。

発見3:AIは「補助輪」ではなく、「学習ツール」である

さらに興味深いのは、AIが従業員の「学習」を促進したという証拠である。研究では、技術的な問題でAIシステムが一時的に停止した際のデータも分析された。その結果、AIの支援を一度経験した従業員は、AIが利用できない状況でも、導入前と比べて高い生産性を維持していた。

この事実は、従業員が単にAIの提案に依存する「思考停止」状態に陥ったわけではないことを示唆している。むしろ、AIとの協働を通じて、より効果的な問題解決の方法や、顧客とのコミュニケーション術を学び、それを自らのスキルとして内面化させていたのだ。AIは一過性の補助輪ではなく、持続的な能力開発を促す学習ツールとして機能していたのである。

発見4:AIは、仕事の「経験の質」をも向上させた

生産性だけではない。AIは、従業員の「仕事の経験の質」そのものも改善していた。AIの支援を受けた従業員に対して、顧客はより丁寧な言葉遣いをするようになり、「マネージャーを出せ」といった要求も減少した。その結果、従業員の離職率、特に新人の離職率が低下した。

これは、AIがより共感的で適切なコミュニケーションを支援することで、顧客の不満を和らげ、従業員が直面する精神的なストレスを軽減したことを示唆している。効率化の追求が、結果として、より人間的な職場環境を生み出すという、逆説的ながらも重要な発見である。

凡人を天才にするAIは、天才を凡人にしてしまうのか?

ここまで紹介してきた知見は、生成AIが人材育成と組織開発にもたらす、計り知れない可能性を示している。しかし、この研究が提示する光景は、バラ色だけではない。

この研究は、あくまで単一の企業、単一の職種(顧客サポート)を対象としたものであり、この結果が他のあらゆる職場に一般化できるかは、慎重な検討が必要だ。また、分析されたのは導入後の数ヶ月から1年程度の「中期的」な効果であり、より長期的な影響については未知数である。

特に、この研究は一つの重要な問いを投げかけている。もし、AIが常に「正解」を提示し、誰もがそれに従うようになったとしたら、組織の未来にとって、それは本当に良いことなのだろうか。研究では、トップクラスの従業員がAIの提案に従うことで、わずかながらも応対の質が低下するケースも見られた。もし、彼らのようなエース社員が、自ら新しい解決策を生み出すことをやめてしまったら、AIが学習するための「新しい教師データ」は誰が作るのだろうか。AIが組織全体のパフォーマンスを平準化する一方で、未来のイノベーションの芽を摘んでしまうリスクも、私たちは同時に見据えなければならない。

もはや「個人のスキル」を問う時代ではない。問うべきは「スキル増幅の仕組み」だ

では、完璧な答えがないとわかった上で、私たちはこの複雑な問題とどう向き合えばよいのだろうか。

ここまでの話から見えてくるのは、生成AIの登場によって、私たちが直面する人材育成の課題が、もはや「個々の従業員のスキルをいかに高めるか」というレベルではなく、「組織全体の知識とスキルをいかに増幅させるシステムを構築するか」という、より高次のレベルに移行したという、揺るぎない事実だ。

重要なのは、AIを単なる効率化ツールとして導入することではない。AIがもたらす「スキルの民主化」という現象を、自社の組織設計や人材育成戦略の根幹にどう組み込むか、という新しい視点を持つことなのかもしれない。

最初のステップ:あなたの「内なる常識」を問う

  • 私たちの組織では、新人や若手社員の育成を、今もなお属人的なOJTや、一部のベテラン社員の献身に依存していないだろうか。

  • 私たちは、AIを「仕事を奪う脅威」あるいは「コスト削減の道具」としてのみ捉えていないだろうか。それを「全社員のためのパーソナルコーチ」として捉え直すことはできないか。

  • 「エース社員」の評価基準は、個人のパフォーマンスだけでよいのだろうか。彼らが生み出す「質の高い教師データ」を、組織への貢献として評価する新しい仕組みは考えられないか。

次のステップ:チームで「新しい学習曲線」を描く

個人の内省から得た気づきは、チームの対話を通じて初めて、組織の力へと昇華する。以下の論点を、次の戦略会議のテーブルに乗せてみてはどうだろうか。

  • 私たちのOJTプロセスに、AIをどのように組み込めるだろうか。AIを新人の「副操縦士」として位置づけ、ベテラン社員がより高度な判断や例外的なケースの指導に集中できる体制は作れないか。

  • AIの導入によって、従業員に求められるスキルはどのように変化するか。定型的な知識の記憶よりも、AIを使いこなし、その提案を批判的に吟味し、最終的な意思決定を行う能力の重要性が増すのではないか。

  • AIがもたらす生産性の向上を、単なる人員削減に繋げるのではなく、従業員がより創造的で付加価値の高い業務に取り組むための「時間」を生み出す、という発想の転換は可能だろうか。

#️⃣【タグ】
生成AI, 生産性, 人材育成, スキル格差, OJT

📖【書誌情報】
Brynjolfsson, E., Li, D., & Raymond, L. (2025). Generative AI at work. The Quarterly Journal of Economics, 140, 889–942.